先日、出張先の大阪で久しぶりに美味しいラーメンを食べた。
天満橋の駅ビルに入っている朝陽閣という中華料理屋のラーメン。挨拶回りで一日中歩いてくたくたになった身体に旨さがしみわたった。
東京に帰って、これまで一番おいしいと思ったK線K駅前のラーメンを久しぶりに食べて比べてみたが、天満橋朝陽閣の方が美味かった。
もちろん、あくまで私の味覚と好みが基準なので、どなたにもお薦めというわけではない。
そもそも、このことは秘密にしておこうと思っていたのだった。
というのも、今回の大阪行きは、黒猫房主さまには秘密だったからである。
多くの人から慕われ、頼りにされている黒猫房主さまに隠れてこそこそ関西に出向いた理由は、言わずと知れた『コーラ』に寄稿した原稿にある。
岡田有生さんに相手をしてもらって続けてきた往復エッセイ「現代思想を再考する」は、遅れに遅れたうえに、本来ならば岡田さんのコメントを付して掲載すべきだったのだが、煮え切らない議論を書いているうちに生煮えの自分の文章に自家中毒を起こしてプッツンきた挙句、私の独断で、今回にて打ち切りを宣言してしまったのだった。
事前に何の相談もなく連載を打ち切られた岡田さんとしてはさぞや苦々しい思いをされたことだろう。
http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20140415/p1
「最後まで気楽で無責任な立場に終始しましたが、たいへん貴重な経験をさせてもらったと思っています」という棒読み的文言にそれがよくにじみ出ている。
ましてや、さんざん待たされた上に、つまらない愚痴のような駄文を送りつけられた黒猫房主さまは、憤懣やるかたないに違いないのだ。
こんな不義理な私が、堂々と大阪の街を歩いてはいけないのである。
そこで、人目を忍んでこそこそと出かけたのだが、東京に帰ってきたら、黒猫房主さまから「Web評論誌『コーラ』22号のご案内」が届いていた。まるで私が大阪から帰ってくるのを見透かしたようなタイミングであった。これはきっと黒猫房主さまの手のものが目を光らせていたに違いない。なんといっても、大阪の街猫の大半は黒猫房主さまの息がかかっているとの噂である。
それはさておき、案内状には次のようにあった。
http://d.hatena.ne.jp/kuronekobousyu/20140415/p1
「桜舞ふ どこへ惑うか きょうのみち」→「桜舞ふ 惑いて冥く きょうのみち」
なんてね?
みなさまは花見をされましたでしょうか?
拙宅の近所には桜の名所で有名な川沿い公園がありますので、今年も花見客がたくさん訪れておりましたが、もはや葉桜。
「桜舞ふ 惑いて冥く きょうのみち」…、きっと迷走を続ける私のことに違いない。
「桜の名所で有名な川沿い公園」?それって私がのん気にラーメンを食べた天満橋のすぐ近くじゃないのか。
しまった!すべてお見通しだったというわけか。
「もはや葉桜」…、やっぱり私のことだ!
それはさておき、自分の駄文は没になったろうからどなたがその穴を埋めてくれたのだろうと思いきや、さらしもののように巻頭に掲載されているのを見たときの恥ずかしさと言ったら、もう言葉にならない。
どうか私の駄文は、話のマクラと思し召して読み飛ばし、中原紀生さんの歌論や寺田操さんの味わい深いエッセイを楽しんでくださいますようお願い申し上げます。
■■■Web評論誌『コーラ』22号のご案内■■■
★サイトの表紙はこちらです(すぐクリック!)。
http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/index.html
---------------------------------------------------------------●現代思想を再考する[第2期]4(最終回)●
歴史の教訓的使用について広坂朋信
http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/gendaisisou-s4.html
まえおき
カントをもじって「歴史の教訓的使用」と題したからには、マルクスから
「一度は偉大な悲劇として、もう一度はみじめな笑劇として」の名文句を引い
てその出典について蘊蓄をひとくさりしつつ、おもむろにハーバーマス「歴史
の公的使用について」(『過ぎ去ろうとしない過去』)を引っぱり出して歴史
修正主義について論じるといった「遊び」が必要だというのが、このリレー
エッセイで私が主張してきたことの一つである。
白か黒か短兵急に決着をつけたがる議論は危い。せめて結論のない蘊蓄をひ
とくさりするくらいの「遊び」がないと、考えることが苦痛になる。それは裏
返せば、思想が恫喝の道具になりかねないということだ。さあ考えろ、結論は
これだ、というわけだ。来年あたりから小中学校で実行されようとしている教
科としての道徳教育とはそうした恐喝に、きっとなる。(以下、Webに続く)---------------------------------------------------------------
●連載:哥とクオリア/ペルソナと哥●
第28章 言語・意識・認識(意識フィールド篇)
http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/uta-28.html
第29章 言語・意識・認識(意識フィールド篇、余録と補遺)
http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/uta-29.html
中原紀生
■漢語系と和語系、二つの言語意識
井筒豊子・和歌論三部作のうちの「意識フィールド」論文を、かれこれもう
一年近く読みあぐねています。
この間、矯めつ眇めつ繰りかえし眺めているのにいまだ見極めがつかず、
しっくり腑に落ち得心できたという実感がこみあげてきません。なにがどう論
じられているかは読めば判るし、判ればとても刺激を受けるのに、読みかえす
たびまた初めての読中読後感が立ちあがってきて、どうにも読み尽くせない。
「言語フィールド」論文もけっして御しやすくはなかったものの、それでも論
じられている事柄や主張それ自体はとてもシンプルで、かつ、議論の輪郭や筋
道もくっきりと見通しがきくものだったのですが、「意識フィールド」論文
は、文章、構文、叙述の全般にわたって複雑、錯綜の程度が高まり、読みくだ
し理解するのに難渋をきわめるのです。(これが「認識フィールド」論文とも
なると、文章量の飛躍的な増量とともに論述の中身の複雑、錯綜、晦渋の質が
より高次の域に達して、もはやその精緻きわまりない顕微鏡的な解像度につい
ていけない。)((以下、Webに続く)----------------------------------------------------------------
●連載「新・玩物草紙」●
捨児/富士寺田 操
http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/singanbutusousi-12.html
小川洋子「イービーのかなわぬ望み」(『夜明けの縁をさ迷う人々』角川文
庫/2010・6)は、街で一番古い中華料理店のエレベーターのなかで産み
落とされ、母に姿を消された男の捨児の物語だ。出産に遭遇したが縁で捨児を
育てることになった洗い場のチュン婆さんは、赤ん坊を背中にくくりつけて皿
洗いをし、流し台の陰でミルクを飲ませ、店の一角で捨児と一緒に寝起きし
た。イービーと名付けられた彼がヨチヨチ歩きするころになるとエレベーター
が遊び場となり、一日中そこで過ごすようになった。エレベーターには可愛い
男がいると評判になり、中華料理店にはなくてはならないマスコットになった
彼だが、育ての親が死ぬとエレベーターに駆けこんでひきこもり、そこが住居
であり仕事場であるといった完全なエレべーター・ボーイとなった。時は流
れ、中華料理屋の閉店、老朽化した建物の取り壊しがはじまった。エレベー
ターからウェイトレスに抱きかかえられて救出され、はじめて外界の空気に触
れたイービーだが、しだいに輪郭を失くし、余生をすごしたいと願ったエレ
ベーターテスト塔が見えたとき、肉体は消えていた。((以下、Webに続く)