老母の怖い話

暑かった夏の思い出として、介護施設に短期入所した老母の怖い話を一つ。
ちなみに、これは高齢者福祉の問題点が云々というたぐいの話ではないことをあらかじめお断りしておく。
1992年に堀田善衛は、随筆「アルハンブラの思い出」で、暑いことで有名なスペインの夏を回顧している(堀田善衛
天上大風―同時代評セレクション1986-1998 (ちくま学芸文庫)』所収)。堀田によれば、スペインの夏は暑くて、「室内温度が三十度を越えると、もはや昼寝以外の一切の行動が出来なくなる」のだそうだが、今年の日本の夏は連日と言っていいほど30度以上の日が続いた。
この猛暑のなか、昨夏七月父が亡くなり老母が一人で暮らす団地のエアコンが壊れた。
暑さが本格的になる前の7月9日のことだったが、放っておけばとんでもないことになるのは目に見えていたので、すぐに近所の電気店に飛んでいった。
エアコンはいくらでもあるのだが、取り付ける業者が不足していて設置は3週間先になるという。これからいよいよ暑くなるというのに! 背筋がゾッとしたが、本題はまだ先である。
7月末まで扇風機と氷嚢だけというのも心もとない。とりあえず、日中はできるだけ老人介護施設のデイサービスに行ってもらい、日曜やデイサービスのない日の昼間は私が冷房の利いたところに母を連れ出して暑さをしのいでもらった。
そうこうしているうちに、デイサービスに行っている施設でショートステイが利用できることになり、これ幸いとエアコンが設置されるまでの最後の1週間は短期入所させてもらった。おかげで老母は、冷房の利いた部屋でぬくぬくと寝ていられたのである。冷房でぬくぬくと、というのは形容がおかしいがまあいいや。
これからが本題である。
先日、老母の介護担当者との打ち合わせがあり、ケアマネージャー、ヘルパー、訪問看護師の諸氏と話し合いがもたれた。
その折に、この夏の暑さの話になり、エアコンが入ってよかった、岐阜の病院ではエアコンの故障した部屋に寝かされていた老人が五人も亡くなったそうだ、ショートステイも利用できてよかったという話の流れで、ケアマネージャー氏が「ショートステイはいかがでしたか」と母に尋ねた。
すると母はこう言った。
「涼しい部屋で寝かせてもらって、ほんとうに命拾いした。有り難かった。ただ、夜は誰かがのぞきに来るので眠れなかった」。
その話は聞いていた。安全確認のために施設の職員の方が見回りに来たのだろうと思っていたので、そう言うとケアマネさんをはじめ、その場にいた皆さんがニコニコとうなずくなか、母は妙なことを言い出した。
「違うの。寝ているとカーテンの隙間から靴だけ見えるの、赤い靴や白い靴や黒い靴が」。
看護師さんが妙な顔をした。
「それだけじゃなくて、カーテンの上からのぞきこむ人がいるの。おかしな人ねえ」。
ヘルパーさんが「それって怖い話じゃ…」とつぶやいた。看護師さんもうなずいた。
一拍置いて、鈍感な私にもわかった。
母が短期入所した介護施設の玄関には靴箱があって、来訪者はスリッパに履き替える。職員はたいていズック靴をはいている。入所者は転倒防止用のかかとのあるサンダルのような上履きをはいている。
母の言う「赤い靴や白い靴や黒い靴」とは、婦人もののヒールのある靴のことだろう。夜中の施設にそんな靴を履いている人はいないのだ。
そして、カーテンの上からのぞきこむ顔。
母の寝ていた部屋は、病棟の4人部屋のようなところで、通路に面した足元と側面はカーテンで仕切られていた。
カーテンは1メートル80センチある私の背丈より高かった。
入所者はみな後期高齢者で、車椅子の人も多い。母と同室の人はみな小柄なお婆さんである。施設の職員で2メートル近い身長の人はいない。
パーキンソン病に伴う幻覚だろうか、それとも…、と、介護関係者と息子が怪訝な顔を見合わせていると、母はニコニコしながら言った。
「だからね、できるだけ、住み慣れた自分のうちで頑張ろうと思うの」。
前向きな言葉に、一同ホッとして、そうですね、がんばりましょうとか言っていると、母が話をまとめた。
「ここならお父さんもいて安心だし」。
笑っていたのは父の遺影だけだった。