プラトン『パイドロス』を読まなかった理由

昨夜、さてなにから読もうかと、積み上げられて倒壊した本の山をながめながら考えたが、特段によい知恵は浮かばない。新刊や時事的なものは書評する人もたくさんおられるようだから、とりあえず読み忘れていた古いものから読もうと手にとったのがプラトンパイドロスパイドロス (岩波文庫)
学生時代に一度読みかけてそのままになっていたが、どうして途中でやめてしまったのか、読み出してすぐにわかった。
パイドロス』の初めの方には、神話・伝説の解釈について面白い考え方が出てくる。
パイドロスに街で出会ったソクラテスは、弁論家リュシアスの作った恋に関する論説をパイドロスから聞くために、二人で腰を落ち着けられる場所を探して歩く。その途中、ソクラテスは、北風の神ボレアスがオレイテュイアという娘をさらっていったという伝説について事実だと信じているか、というパイドロスの問いに答えて、自然現象(突風による転落事故)を擬人化したものだという一種の合理的解釈を語って見せたうえで、次のように言う。
「しかし、パイドロス、ぼくの考えを言うと、こういった説明の仕方は、たしかに面白いにはちがいないだろうけれど、ただよほど才知にたけて労をいとわぬ人でなければやれないことだし、それにこんなことをする人は、あまり仕合わせでもないと思うよ。なぜかというと、ほかでもないが、その人はつぎにヒポケンタウロスの姿を納得の行く形に修正しなければならないことになるし、さらにおつぎはキマイラの姿を、ということになる。さらにはまた、これと似たようなゴルゴやベガソスたちの群、そしてまだほかにも不可思議な、妖怪めいたやからどもが大挙して押しよせてくるのだ。もし誰かがこれらの怪物たちのことをそのまま信じないで、その一つ一つをもっともらしい理くつに合うように、こじつけようとしてみたまえ! さぞかしその人は、なにか強引な智慧をふりしぼらなければならないために、たくさんの暇を必要とすることだろう。」(p15-p16)
それはソクラテスにとって「われみずからを知る」という「肝心の事柄についてまだ無知でありながら、自分に関係のないさまざまのことについて考えをめぐらすのは笑止千万」なことであり、そうした神話・伝説については「一般にみとめられているところをそのまま信じることにして、いま言ったように、そういう事柄ではなく、ぼく自身に考察を向ける」ことこそが大事な事柄だからなのだ。
実はかつて私は、このソクラテスのセリフを、デカルト方法序説方法序説・情念論 (中公文庫)に出てくる暫定的道徳のようなものだと思っていた。デカルトは方法的懐疑に先立つ「理性が私に対して判断において非決定であれと命ずる間」のために四つの規則(格率)を設けたが、その最初のものはつぎのようである。
「第一の格率は、私の国の法律と習慣に服従し、神の恩寵により幼時から教えこまれた宗教をしっかりともちつづけ、ほかのすべてのことでは、私が共に生きてゆかねばならぬ人々のうちの最も分別ある人々が、ふつうに実生活においてとっているところの、最も穏健な、極端からは遠い意見に従って、自分を導く、ということであった。」(デカルト方法序説野田又夫訳、中公文庫、p32)
これを最初に読んだときは、23才の若さでこういう姑息なことを考えるデカルトに腹を立て、その先を読まずに投げ出してしまった(後で自分の誤りに気づいて熟読したけれども)。そして、その勢いがのこったまま『パイドロス』を読み、せっかく神話に合理的な解釈をしておきながら、それを「もっともらしい理くつ」「こじつけ」「笑止千万」と断じるプラトンに殺意さえ覚えたものだが、そのときプラトンはとっくの昔に死んでいた(もちろんデカルトも)。
あれから20年以上の月日がたった。その間に私は数え切れない神社仏閣に手を合わせ、自宅には厄よけだの家内安全だの、職場には商売繁盛のお札を飾っている。それらの宗教の説く教えに共感しているわけでも、祈祷の御利益を信じているわけでもないのに。
表面的には同じことをやっているようでも、デカルトは学問を土台から築きなおすために、ソクラテスプラトン)は「われみずからを知る」ためにそうしたのに対し、私は日々の生活の気休めのためや社会慣習を守っている人との間にさざ波を立てたくないためであるにすぎない。だらしない我が身を省みて先哲の前に恥じ入るばかりである。
しかし、いまあらためて思う。神話・伝説を合理的に解釈すべきかどうかは別にして、ヒポケンタウロスは伝えられている通り半人半馬の姿であったかどうか、人面蛇身のゴルゴは実在したのか、ベガソスに翼はあったか、もしそうでなかったとしたら、なぜそのように伝えられ、信じられてきたのか、ということは、はたして「自分に関係のない」ことなのだろうか?
ソクラテスはこの発言に続いて、パイドロスの話を聴くために二人が腰を落ち着ける場所を「おおこれは、ヘラの女神にかけて、このいこいの場所のなんと美しいことよ!」と讃え、「小さい神像や彫像が捧げられているところから察するに、ここはニュンフやアケロオスのいます神聖な土地とみえる。」(p17)と言っている。精霊(ニュンフ)や河神(アケロオス)も神話・伝説上の存在であるが、ソクラテスはそれらを信じているような口ぶりだ。もっともこれだけなら当時の慣用的な表現だとも考えられる。現代の日本人も「今日は憑いていない」と舌打ちするときに幸運の神が実在するかどうかなど気にかけていないだろうし、「人事を尽くして天命を待つ」と口にする人も、天とは何か、など考えたりはしないだろう。私だって普段はそうだ。
けれども神話や伝説、宗教、あるいは伝統文化に対して、どういう態度をとるべきなのか、もう遅いかも知れないが考えておいてもよいことだろう。