処女鬼神

「処女鬼神」という言葉がある。直訳すれば未婚女性の死霊という意味である。
「処女鬼神」とは、韓国(朝鮮)で語り継がれてきた民間伝承で、女が未婚のまま死ぬと祀られぬ怨霊となってこの世をさまよい歩くと信じられていたという。
私がこの言葉をはじめて知ったのは、元「従軍慰安婦」だったある韓国人女性の言葉としてだった。当初、私は、その老婦人が元「従軍慰安婦」だったという過去のため幸福な結婚生活が営めなかったことへの悔恨の念を表す言葉として受け取ったのだが、その真意は、未婚のまま死ぬ=子孫を残さずに死ぬ、すなわち死後その霊が子孫によって祖霊として祀られないことから、「処女鬼神」は浮かばれぬ亡霊として現世をさまよい歩く、ということにあった。
日本風に言えば無縁仏というところであろうが、儒教的伝統が強く、家族という単位の社会的な重みが日本よりはるかに重い韓国にあっては、処女鬼神となるということは、血縁共同体の外に放逐されて人生の落伍者の烙印を死後もなお背負い続けなければいけないということだと知って、愕然とした。
いま日本でも韓流ブームとやらで、テレビ番組では韓国出身のタレントが活躍し、話題となる事柄もキムチ・焼き肉といったこれまでの定番からビジネスやファッションにまで及ぶようになった。だが、文化や歴史となるとどうだろう。欧米はもとより中国と比較しても圧倒的に情報量が少ない。
文化や歴史といってもいろいろあるが、例えば韓国で語り継がれている神話や民話についてはどうだろう。かつて扶桑社版の中学歴史教科書が記紀神話を掲載したことが歴史と神話を混同するものとして問題となったが、神話それ自体は文化と歴史を知る上で欠かすことができない。映画やスポーツや音楽の日韓交流も結構だが、隣国の神話・伝説にももっと目が向けられてもよいと思う。神話はそれを共有する人々の感性に陰に陽に影響を与え、考え方の基盤を形作る重要な要素となっているからだ。
金両基韓国神話』には隣人たちの始祖伝承である檀君神話や、古代日本と交流のあった高句麗百済新羅などの建国神話から民間伝承まで幅広く紹介されている。それらには中国・インド・日本などの外国との交流も記され、大和朝廷に属する者以外はまつろわぬ邪神・蛮族としてしか登場しない島国日本の神話と比べると豊かな国際性が感じられる。
中でも驚かされたのは日本の記紀神話にある三輪山型神婚説話(いわゆる蛇婿入り伝説)とそっくりの物語があることだ。ほかにも「桃太郎」の原型だったろうと推測できる「卵から生まれた勇士」の話などもある。もちろん、よく似た話を同じ話とみなしてよいかどうかという問題はあるが、それでも古代日本文化のルーツの一つが朝鮮半島にあったことをうかがわせてくれる。
隣国同士、両文化圏の神話・伝説を比較検討する研究が盛んであってもよさそうなものだが、少数の研究者以外に取り組む者のいないのはなぜか。日韓併合によって朝鮮半島を植民地化した帝国主義日本の朝鮮文化蔑視と抑圧された側の反日ナショナリズムが両文化圏の交流を妨げてきたのだろうとは誰でも思いつくことだが、川村湊の『「大東亜民俗学」の虚実』によればそればかりではない。

「大東亜民俗学」の虚実 (講談社選書メチエ)

「大東亜民俗学」の虚実 (講談社選書メチエ)

川村は特に日本側の事情として、日本民俗学の祖・柳田国男による比較民俗学の否定を挙げて、柳田が「皇室と被差別部落の起源の問題、そして渡来人と皇室との関係という日本史のもっとも微妙で複雑な問題」を回避するために比較民俗学を禁欲したと論じている。
民俗学もいつまでも柳田の呪縛にとらわれることもないだろう。両文化圏の垣根を高くしてしまった責任の重い日本側からこそ自らのタブーを積極的に取り払い、隣国の文化への関心を深めるべきではないのか。