8月6日付日記へいただいたコメントへのお返事

こうの史代夕凪の街 桜の国 (アクションコミックス)』を読んでの記事にコメントをいただきありがとうございました。
chiyomiさんのお父上も広島で被爆されたとか。亡くなられたのは残念ですが、きっと愛娘はわかってくれる、と思っておられたのに相違ないと拝察いたします。
原爆、戦争体験に限らず、並はずれて悲惨な出来事の体験というものは、当事者以外の第三者が容易に口出しすることの出来ないものですが、だからといって想像することまでやめてしまってはならないと私は思っています。
私はその手がかりとして、1999年9月に起きた東海村臨界事故のことを考えます。
参考、『被曝治療83日間の記録』

被曝治療83日間の記録―東海村臨界事故

被曝治療83日間の記録―東海村臨界事故

あの事故で、作業員二人が放射能中性子線)を被爆し同年12月と翌年4月に亡くなりました。
こう書くとそれだけの話ですが、一人は3ヶ月近く、もう一人は7ヶ月近くの間、生きていた。
生きていたからよかったという単純なことではありません。
あのとき、被爆した作業員の治療に当たった東大病院医師の記者会見の様子がテレビニュースで流されていました。
医師は、患者は皮膚はもちろん、内臓や筋肉も徐々に壊死していく、手の尽くしようもない、しかも、患者に意識はあり苦痛だけは感じられる、というような説明をした後、ちょっと絶句してから、「こんなことはあってはならないことです」と胸の奥から絞り出すように言いました。
医師の目には涙が浮かんでいたと思います。
細部は違っているかも知れませんが、私はこの記者会見が忘れられない。
被爆させられるということは、おそらくは経験豊富で、大勢の重病人を看取ってきたに違いないエリート医師がテレビカメラの前で我を忘れてしまうほど酷いことなのでしょう。
ただ苦しんで死ぬだけの状態に人は置かれることがある。こんなことが許されるものか、と、たった一人の患者を診た医師でさえそう感じたのです。
広島や長崎では何十万人の人が同じ症状に苦しんだことでしょうか。長崎だけで13万7339人、義父の言葉によれば、死んだことすら知られていない人もきっといるそうですから、おそらくもっと多くの人が、ただ苦しんで死ぬだけの状態に置かれた。
そのことだけでも慄然とするのですが、苦しむ暇もなく、骨も残さず物理的に蒸発し、その死の記録すらされていない人もいるかと思うとほんとうに言葉を失います。
義父は数年前、生き残った学徒動員仲間と長崎での被爆の状況をまとめた小冊子を作っていました。
すべてを正しく伝えるのことは無理だし、また思い出すのも嫌なことだったでしょうが、「誰かが言っておかんと最初から居なかったことにされる人もおるから」と言っていました。
身内ぼめみたいで恐縮ですが、よくぞ書き残してくれた、と思います。
血のつながりはありませんが、私にとって誇るべき父です。