トラシュマコスの正義

正義とはしょせん勝者が自分の行動を合理化するための言葉でしかないのか、悪とは勝者によって敗者に貼られたレッテルにすぎないのか、というのは、誰でもすぐに思いつきそうな陳腐な問いだが、だからこそ古くから問われ、いまだに決定的な解答が得られていないように思われる。
この問いを考えるために「正義について」という副題をもつプラトン『国家』を読み返してみた。

国家〈上〉 (岩波文庫)

国家〈上〉 (岩波文庫)

これは別に『国家とはなにか』に対して「こんなことは昔から論じられていたことであってね」という知ったかぶりをしたいがためではない。たしか『国家』の初めの方でそうした問題が扱われていたはずだということをなんとなく覚えていたからにすぎない。
プラトン『国家』には「〈正しいこと〉とは、強い者の利益にほかならない」(p49)と主張するトラシュマコスという壮士風の男が登場してソクラテスと問答をかわす。
ソクラテスが若い友人たちと「〈正義〉とはいったい何なのか、ほかにどのような主張が考えられるだろう?」と語り合っているところに割って入ったトラシュマコスは「〈正しいこと〉とは、強い者の利益にほかならない」と主張する。これに対してソクラテスは、それは強い関取がちゃんこを食べればもっと強くなるから、ちゃんこを食べることは正しいことだということか、と茶化す。ここでトラシュマコスがなぜその通りだと言い放たなかったか私には疑問だが、ソクラテスの巧みな誘導尋問にトラシュマコスは次のような説を述べる。

支配階級というものは、それぞれ自分の利益に合わせて法律を制定する。たとえば、民主制の場合ならば民衆中心の法律を制定し、僭主独裁制の場合ならば独裁僭主中心の法律を制定し、その他の政治形態の場合もこれと同様である。そしてそういうふうに法律を制定したうえでこの、自分たちの利益になることこそが被支配者たちにとって〈正しいこと〉なのだと宣言し、これを踏みはずした者を法律違反者、不正な犯罪人として懲罰する。
さあ、これでおわかりかね? 私の言うのはこのように、〈正しいこと〉とはすべての国において同一の事柄を意味している。すなわちそれは、現存する支配階級の利益になることにほかならない、ということなのだ。しかるに支配階級とは、権力のある強い者のことだ。したがって正しく推論するならば、強い者の利益になることこそが、いずこにおいても同じように〈正しいこと〉なのだ、という結論になる。(p50-51)

この後、プラトンの対話編の読者にはおなじみのとおり、トラシュマコスは問答法の達人ソクラテスに手玉にとられて最後には自説を撤回することになるのだが、その場に居合わせたグラウコンたちはその問答に必ずしも納得できず、ソクラテスに再度の議論を求めるところから『国家』本編の始まりとなる。