コロンブスの卵

困った、台風が来ているので早く帰りたいのだが、連絡の取れない人がいる。
萱野稔人『国家とはなにか』の最後のところを少し読む。

資本主義の発達はけっして国家の消滅をもたらさない。いいかえるなら、国家は資本主義にくみ込まれることでより大きな富とテクノロジーを得ようとするとはいえ、それに吸収されてしまわない独立性をもっている。(萱野、p273)

資本主義と国家の間にくさびを打ち込んだのは重要なポイントだと思う。これは歴史を振り返れば、資本主義経済のない時代や地域にも国家があったことを指し示すことによって簡単に証明される。
ものすごく大雑把に言えば、従来は、封建制から資本制へという経済構造の発展は歴史の必然であって、いずれ世界中の国は資本主義国になるのだから、資本主義の矛盾を発展解消して社会主義にしよう、あるいは、資本主義をより合理的なシステムに洗練させよう、という議論が多かったような気がする。
どちらにせよ、資本主義を基準にして、国家の消滅(マル経)、あるいは国家の縮小(近経)を目指していたのではないだろうか。
実際に、誰でもよいが専門の経済学者がこんな大雑把な議論をしていたとは思えないが、素人が経済談義から受ける印象はこういうものだったし、これは私一人の誤解ではないと思う。新聞の社説なんかこのレベルだったのではないだろうか。
だから萱野が資本主義に対して国家の独立性を指摘したということは、コロンブスの卵のようなもので言われてみれば自明の理なのだが、やはり通説に対する大胆な挑戦といえるだろう。

もう待てない

萱野は国家と資本主義を独立したものとした上で、「国家にどう対峙すべきかという問いは、資本主義との関係のなかで思考され、実践されなくてはならない」という。

両者の関係への介入は、公理のレベルでおこなわれるだろう。というのも、国家は資本と労働の流れをめぐる諸公理の実現モデルとなることで、資本主義との内在的な関係にはいるからである。そこでは公理のあり方が両者の関係を規定する。(p275)

またしても「公理」である。これがよくわからない。ドゥルーズ=ガタリ千のプラトー―資本主義と分裂症』からの言葉らしいのだが、あんな分厚い本を読む余裕がない。
それなら萱野の論述をさかのぼって確かめるべきだろうが、もう時間がない。
電車が止まったらたいへんだ。
もう待てない。メールも留守電も入れた。帰る、帰ります。