ベンヤミン『暴力批判論』1読み方について

ベンヤミン『暴力批判論』ISBN:4003246314、その冒頭でつまづいて次のようなメモを書いた。

「暴力批判論の課題は、暴力と、法および正義との関係をえがくことだ、といってよいだろう。」
冒頭の文章。「暴力と、法および正義との関係」とはどういうことなのか。暴力と何かの関係であることはわかるが、法と正義の間にある「および」はどういう意味なのか。暴力と関係する法と正義はどういう関係にあるのかにも注意して読んでいくことにする。
第2行目でいきなりつまずいた。
「というのは、ほとんど不断に作用している一つの動因が、暴力としての含みをもつにいたるのは、それが倫理的な諸関係に介入するときであり、この諸関係の領域を表示するのは、法と正義という概念なのだから。」
形式的には第1行目の文章の理由を説明しているのだが、なにも説明された気にならない。

なにをわからない子ぶりっ子しているのか。ガキじゃあるまいし、と我ながら舌打ちしたくなるような分からず屋ぶりである。
いま、あらためて、その同じ箇所を落ち着いて読み直してみると、どうしてわからなかったのかがわからないような文章である。
「ひとつの動因」が「暴力」とみなされるのは、「倫理的な諸関係のなかへ介入するとき」である。その領域は「法と正義という概念」によって表示される。したがって、暴力を批評することは、「動因」(力)と「法および正義との関係を描くこと」だ。言い換えれば、ある力の作用が暴力とみなされるかどうかは、その力が法と正義といかなる関係にある場合か、その条件を見定めることが重要だ、そうベンヤミンは言っている。
どうしてこれがわからなかったのか。おそらく、かつて私が学んだ哲学とスタイルが違っていたからではないか。学生時代に私が好んで読んでいたのは、ベルクソン、初期サルトルメルロ=ポンティといった、感覚や経験の描写から議論を説き起すスタイルのものだったから、いきなり法だの正義だのといったゴツイ概念を前提にして語りはじめるベンヤミンのスタイルになじめなかったのだろう。だからベンヤミンが次のように言ったところで驚かないようにしよう。

まず法の概念についていえば、あらゆる法秩序のもっとも根底的で基本的な関係は、明らかに、目的と手段との関係である。そして暴力は、さしあたっては目的の領域にではなく、もっぱら手段の領域に見いだされうる。(p29)

なぜ「あらゆる」とか「もっとも根底的で基本的な」とか無前提に言えるんだ?全然「明らか」じゃないじゃないか、などとびっくりしてはいけないのだ。おそらくこういう文章は、これから先の議論をある程度先取りして言われているのに違いないのだから。そうしてみると、一行一行じっくり読むのではなく、もう少しザックリと読んでいかなければ、この短いエッセイを読み終わるのに半年くらいかかってしまいそうだ。
もうそんなにゆっくりしていられる時間はないのだから、大まかに粗筋をつかむように読んでいった方がよいのかも知れない。