ベンヤミン『暴力批判論』3自然法と実定法

最初に余談。
以下の文章も興味深い。

こういう見かたは、のちにダーウィンの生物学をつうじて、たぶんいっそう力づけられることになった。ダーウィンの生物学は、まったくドグマ的なしかたで、自然淘汰のほかには暴力だけが、生命的な自然の目的にふさわしい根源的な手段である、と見なしている。ダーウィン派の通俗哲学を一読すれば分かるが、この博物学のドグマから、もっと乱暴な法哲学のドグマ−−おおよそ自然な目的にかなった暴力は、それだけでもう正当である、とするドグマ−−へは、ほんの小さな一歩にすぎない。(p31)

この社会進化論についての言及は、『暴力批判論』の主旨からいえば脚注にすぎないものだが、ちょっと引っかかるものを感じるので書き留めておく。ベンヤミンが後の方で触れることになるソレル『暴力論』がベルクソン哲学の影響を受けていることと考えあわせると興味深さもなおさらになる。ベルクソンは、当時の代表的な社会進化論であるスペンサー哲学の批判から出発し(『意識に直接与えられたものについての試論』)、最後の著作でもスペンサーを批判していた(『道徳と宗教の二源泉 (岩波文庫)』)。ベルクソンのスペンサー批判の意義については、まとまった研究を目にしたことがないので、今の私にはこれ以上のことは言えない(学生時代にかじったとはいえ卒論を書いてから二〇年近く立つのだから)。
閑話休題
さて、自然法のテーゼと対称的なのが、合法性を手段の批評基準とする実定法のテーゼだが、両者には「共通の基本的ドグマ」があるという。

すなわち、正しい目的は適法の手段によって達成されうるし、適法の手段は正しい目的へ向けて適用されうる、とするドグマである。自然法は、目的の正しさによって手段を「正当化」しようとし、実定法は、手段の適法性によって目的の正しさを「保証」しようとする。(p31)

ベンヤミンから見れば、「目的が正しければOK」という自然法の立場も、「手段が合法的であればOK」という実定法の立場も、いずれも五十歩百歩なのだが、最初の、暴力は、目的の領域にではなく手段の領域に見いだされうる、という仮定に立って、自然法の土俵で神々の争い(「底なしの御託」)を演じるよりも、実定法理論の「いわゆる法定の暴力と、法定のものではない暴力とのあいだにある」区別を「出発点での仮設として」、「暴力を構成するいくつかの手段の正当性についての問い」を中心に論じる(p32)。
ただし、それは実定法の尺度を適用するということではなく、その尺度と「その尺度が適用される圏」についての批判となるという。

このような批判をおこなうには、実定法哲学のそとに立場を見つける必要があるが、その立場は同時に、自然法のそとでもなければならなぬ。いくらかでもそのような立場を提供しうるものは、歴史哲学的な法研究のほかにはないだろう。(p33)

ここまでは難しいとはいえ、なんとかわかるのだが、この次になると、私がバカすぎて混乱しているのだが、ベンヤミンの説明が不親切なのでそう感じるのかはわからないが、とにかくなんともよくわからない。
実定法理論による暴力の区別、「なんらかの条件のもとでその暴力が得てきた適法性ないし承認」と違法性ないし非承認の区別について述べるところである。

法的暴力の承認は、具体的には、その目的への原則的に無抵抗な服従としてあらわれるから、暴力を仮に区別する理由は、その目的の普遍的・歴史的な承認の存在、あるいは欠如として基礎づけられる。この承認を欠く目的を自然目的と呼び、他を法的目的と呼んでおこう。(p33)

あれ?さっきまで目的(自然法)ではなく手段(実定法)をという話をしていたはずだったのではないか。それとも私が読み違えていたのだろうか。いやいやそんなことはない。なぜなら上に引いた文章の直前には、

適法な暴力と不法な暴力とを区別することの意味は、自明ではない。その意味は、正しい目的のための暴力と不正な目的のための暴力とを区別するところにある、とする自然法的な誤解は、きっぱりとしりぞけられねばならぬ。(p33)

と、きっぱりと言われているから。
思い出した、ここは以前に読んだときも引っかかって、投げ出した場所だ。
ちょっと頭を整理する。
すると、目的の正・不正という自然法的な基準と対立するものとして、目的の自然的・法的という基準が実定法的な基準として立てられたことになるのだろうか。つまりはなから問題は、目的か手段か、ではなく、法的(歴史的)に承認されているかいないか、にあったということか。
ははあ、自然目的か法的目的か、という基準が、法的(歴史的)に承認されている(法的目的)かいない(自然目的)か、という基準だとすると、これ自体、実定法の立場による議論だということになる。自然法の立場からなら目的の適法性は問われないから。善し悪しではなく、適法か違法か、という点にアクセントがある。ある行為が適法とされるのは、それが善いからじゃない、歴史的承認には善悪とは別の基準があるだろう、ということか。
それにしても、手段はどこに行っちゃったんだ?ああ、そうか、暴力はもともと手段の領域なんだ。
それにしてもなんだか落ち着かない。目的によって手段を正当化しうるというのは、自然法・実定法に「共通の基本的ドグマ」だと文句を言ってなかったか?
ま、今回はあまり悩まずに先に進もう、と決めたのだったから、チェックしておくに留めておこう。

追記

なんだか知ったかぶりの書き方をしてしまいました。いえいえベンヤミンについてではなくて、ベルクソンの著書名、直訳じゃなくて通称の『時間と自由 (岩波文庫)』でいいんだ。そっちの方が通りがいいんだから。格好つけてもはじまらない。