ベンヤミン『暴力批判論』6ストライキと戦争

ベンヤミンは、「現行法によってさえまだ暴力の展開が認められている分野」として、ストライキと戦争を挙げる。
戦争と並べてストライキを暴力と呼ぶのは意外な感じだが、ベンヤミンによれば、ストライキにも「恐喝としての暴力のモメント」があり、「ストライキ権は、なんらかの目的を貫徹するために暴力を用いる権利」(p36)だという。
確かにストライキは交渉を強制するための手段であって、その意味で暴力的な側面もあろうが、労基法無視の労働条件で働いたり、不当解雇されたりした経験を持つ私としては、経営者の恣意的な人事の方がよほど暴力的だと思えて、やはり坊ちゃん育ちのベンヤミンには労働者の気持ちはわからんのかと怒りたくもなるのだが、さて、頭を冷やしてベンヤミンの文章をつらつら読んでみると、私のような短絡的な不満に対してもちゃんと考えられていて、むしろそこが議論の大事なポイントになっている。

自然目的としてのこの暴力の目的に、国家はときには無頓着に、しかし重大なとき(革命的ゼネストのとき)には敵意をむきだしにして、対立する。だから、一見しては逆説的に見えるにもせよ、ある種の権利を行使する態度も、特定の諸条件のもとでは、暴力と呼ばれることになる。じっさいそれは、積極的な行動となるなら、暴力と呼ばれてもいい−−その権利を付与した法秩序を打破するために、与えられた権利を行使する場合は。だが、消極的な場合も、上述の意味での恐喝といえるなら、同じく暴力といえるだろう。(『暴力批判論 他十篇 (岩波文庫―ベンヤミンの仕事)』p37)

ベンヤミンはこの試論の冒頭で、ある力の作用が暴力とみなされるかどうかは、その力が法と正義といかなる関係にある場合か、その条件を見定めることが重要だ、という趣旨のことをいっていた。ここでも「ある種の権利を行使する態度も、特定の諸条件のもとでは、暴力と呼ばれる」という。問題はその「条件」なのである。
ストライキ権とは国家が労働者に与えた権利である。労働者からすればその権利の行使は当然のことで、暴力をふるっているとは思わない。国家にしても自らが認めた権利なのだから、それを暴力呼ばわりする理由はない。けれども「重大なとき(革命的ゼネストのとき)には敵意をむきだしにして、対立する」、この「重大なとき」とは「その権利を付与した法秩序を打破するために、与えられた権利を行使する場合」がそれに当たるのだろう。
ここに「暴力」という言葉の二面性が表れているように思う。それは「大」犯罪者に対する「民衆のひそかな讃歎」は犯罪者の「行為が暴力の存在を証拠だてたから」であることと関係してくるだろう。
ふつう暴力といえば、倫理的に負の効果をもつ力のことだろうが、ベンヤミンのいう暴力には、法という力(言い換えれば権力)に対抗する力、萱野稔人『国家とはなにか』の口真似をするなら、国家による暴力の独占に対抗する力、としての暴力という側面がある。そうしたものとしての力の行使は、暴力というより実力という語を当てた方がよいようにも思うが、言い換えるだけではすまない問題もあるのだろう。

皮相に見れば暴力は、任意の到達目標を直接的に確保するための、たんなる手段にすぎないが、もしそんなものだとしたら、暴力が達成できる目的は略奪くらいしかない。そういう暴力は、諸関係をかなり永続的に確定したり修正したりするためには、まったく役に立たないだろう。けれどもストライキは、暴力がこのような役に立つことを、しめしている。それは、法関係を確定したり修正したりすることができる−−たとえ正義感が、そのことによってどんなに侮辱を感じようとも。(p38)

「法関係を確定したり修正したりすることができる」、これこそが「法が理由をもって暴力におびえ、恐怖する」暴力の機能である。そして、暴力のこうした機能が、偶然的なものではないことは、戦争を考えればわかるという。
ははあ、なるほどね。そういう議論の運びか。そういえばそうだわ、戦争ってそういうものだわ。うっかりして一方的に攻めてくる得体の知れない敵に対する防衛戦争を思い浮かべていた。あるいは攻守転じて、わーって攻め込んで略奪する類の戦争。
ベンヤミンが想定している戦争はそんな幼稚なイメージじゃないんだ。殴りたいから殴る、鉄砲撃ちたいから撃つ、爆弾落として町が燃えるのを見るのは気持ちいいなあ、なんていう子供じみたサディズムの発露としての戦闘は個人レベルではあるかも知れないが、国家レベルではない。国家は戦争に際して、そうしたサディズムをも動員するだろうが、それ自体が目的じゃない。殺人も破壊も、人を殺してみたかったとか、そんなお子さまな理由から行われるわけではない。
戦争があれば講和がある。講和は、お互い力を尽くして戦ったあとは仲よくしましょうなんていうものではない。それはスポーツの世界のきれいごとだ。勝者が敗者に、勝者の定めた関係を承認させること、それが講和だ。

勝利という勝利が、ほかのすべての法関係とは別個に必要とする承認を表示している。この承認はまさに、新たな関係が新たな「法」として認められる、という点にある。このことは、それが持続するのに事実上なんらかの保証を必要とするか、しないかとは、ぜんぜんかかわりがない。それゆえ、自然目的のためのあらゆる暴力の根源的・原型的な暴力としての戦争の暴力に即して、結論を出してよいとすれば、この種の暴力のすべてには、法を措定する性格が付随している。(p39)

暴力という手段が達成できるものを、関係の変更の強制と解すると、個人の対人関係から国際関係にいたるまで、さまざまなレベルでの暴力が法措定的な性格をもっていることになる。だから国家は法によって暴力を禁止するのだ。別系統の法が生まれては、既存の法の根拠が危うくなってしまうから。