国家神道は幻想か1

以下は一昨年に、ある内輪の研究会で口頭発表したもの。4回に分けて掲載します。レジメを大急ぎで整理しただけなので、読みにくい点はご容赦下さい。
新田均は著作『「現人神」「国家神道」という幻想』(PHP)において、国家神道は幻想である、と主張している。私は歴史学の専門家ではないので、そこで述べられている「史実」の当否については斟酌しない。
史実かどうかに意味が無いというのではなく、「国家神道は幻想である」という主張の述べられ方の方に検討すべき問題があるように思われるからだ。また、あえて村上重良『国家神道』(岩波新書)には触れない。村上説の立場から新田の幻想説に反駁することを目的としないからである。

定義の問題

新田による「国家神道」幻想説は、葦津、阪本の国家神道論(葦津珍彦著/阪本是丸註『国家神道とは何だったのか』神社新報社、阪本是丸『国家神道形成過程の研究』岩波書店)の系譜に列なるもので、「国家神道」という語はなにを意味しているのか、という定義の変更によって成立している。
結論から言えば、幻想説のなかでもとくに新田の主張は、村上重良説に代表される先行学説の「国家神道」概念は、自らの採る「国家神道」理解とは違う、故に前者は幻想である、といっているのに等しい。つまり新田は、無条件に自説の正しさを前提としているので、通常の議論は成り立たない。異なる立場とのコミュニケーションを拒否した独り善がりの演説という印象が否めない。
幻想説は、「国家神道」の「実態」を明らかにしていくことで「国家神道」への批判を否定するスタイルをとる。それがはたして「実像」の創造となってはないだろうかというのが問題である。
葦津、阪本、新田らの「国家神道」論は、敗戦後、GHQによって出された神道指令の呪縛から逃れようとすることを動機にしている。神社神道の側に立って、神社神道から「国家神道」の汚名を雪ぐことを目的としているといってもよい。

国家神道」とは、戦前の日本の神道人の間ではほとんど用ゐられた語ではなくて、米軍の指令で用ゐられた。指令によれば、「日本政府ノ法令ニヨツテ宗派神道教派神道ト区別セラレタル神道ノ一派ヲ指スモノデアル」と定義されてゐる。(葦津、P5)

私は、「国家神道」という語の内容は、以下のように三分類されると考える。
A国体カルトのイデオロギーイデオロギー装置としての国家神道
大日本帝国の制度としての国家神道
神社神道の側が望み、果たし得なかった国教としてのあるべき国家神道
Aは、神道指令にいう、天皇の優越、国民の優越、国土の優越、軍国主義によって構成される「軍国主義乃至過激ナル国家主義イデオロギー」(神国思想)とその宣伝・教育のための諸制度であり、「国家神道」幻想論者たちが「それは国家神道ではない」と主張する最広義の国家神道である。
Bは、歴史上実在した狭義の国家神道、国家祭祀として非宗教とされた神社神道、「政府の国家神道」(葦津、P178)、であり、葦津、阪本、新田の「国家神道」論は、このBに議論を限定するものである。それによって国家管理された神社神道が「軍国主義乃至過激ナル国家主義イデオロギー」の宣伝・教育のための制度ではなかったことを立証しようとする。ただし、それは「国家神道というものを神社神道へと限定するという代償の上に獲得されたものにほかならない。」(山口輝臣『明治国家と宗教』、p10)。
Cは、「国家神道」幻想論者たちが、Aを「それは「国家神道」ではない」と否定し、Bを制度にすぎない、宗教の内実を伴わない、と批判する際に、暗黙に前提とされているはずの、「真の」国家祭祀、あるべき国教としての国家神道である。「国家神道」幻想論も一種の歴史批評である限り、批評の視点が要請されるはずである。

問題提起

・ Aが想定している問題を総称して「国家神道」と呼ぶのは妥当か。
国家神道研究はBに限定されるべきか。
・ Cはどのようなものか。