国家神道は幻想か2葦津、阪本説の検討

熱が出て出社できなかったので、国家神道論の続きを整理してみました。
先に「国家神道」という語の内容について、次のように三分類した。
A国体カルトのイデオロギーイデオロギー装置としての国家神道
大日本帝国の制度としての国家神道
神社神道の側が望み、果たし得なかった国教としてのあるべき国家神道
以下、これを念頭において、葦津珍彦と阪本是丸の説を検討する。

葦津説

神道指令の定義を額面通り受け取るならば、国家神道とは国家管理された神社神道とその制度(国家神道B)のことにすぎないのであり、それは神道指令が想定しているような軍国主義イデオロギーの扇動者(国家神道A)たりえなかったというのが、葦津説の主調である。これは阪本、新田にも引き継がれている。

占領史観

もっとも占領直後の「神道指令」いらい、占領軍権力が、全日本の言論を動員して、神道をもって凶悪な宗教であると印象づけるために猛烈な圧力を加へた。学者も文化人もジャーナリストもその合唱に加はった。日本の土着大衆は、それを決して心から信じたわけではなかったが、絶対強力な軍権力が神道を敵視してゐることだけは確かなので、それをおそれて神社から遠ざかる風潮が著しく、そのために占領中の神社経済が、惨たる貧困情況におちた一時期があったのは事実である。(葦津、P131)

神社神道無害論

事勿れ、無精神、脱イデオロギー国家神道の実相なのである。」(葦津、P136)、「後世の現代人には、神社局は神道的神霊への信はなくとも「国体精神」「国家主義」の精神があったといふ人があらうが、その程度の世俗「国家主義」は、その時代の全日本に例外なく満ちてゐたものであって(仏教寺院キリスト教徒などでも同じであったし)、ことさら神社局に国体精神があるなどといふべきものではない。神道の信仰精神があったかなかったかといへば、「無精神」だったと評すべきだといふのである。(葦津、P138)

神社非宗教論

神社非宗教論は、神社神道の側から言い出したものではない。真宗島地黙雷らが神社神道の力を殺ぐために言い出したものであって、それが政府の採用するところとなり、結果として国家神道化された神道は固有性を失い、空洞化した、と葦津は主張する。

「帝国政府の法令に基づく国家神道」の世俗合理主義的言論(葦津、P188)

野国民の神国思想

外人は戦時に際して日本に燃えあがった在野国民の自然成長的な神国思想を見て、それを民族土着の自然の精神として解しないで、国家の帝国政府が権力的法令をもって指導し命令した宗教と誤認した。(葦津、P208)

かれらが弾圧せねばやまないとして敵目標としてゐた「神道」とは、帝国政府の法令下にあった「国家神道」ではなくて、「神社の外から」「神社を象徴」として、神社に結集して来た在野の国民に潜在する日本人の神国思想ではなかったのか。(葦津、P211)

葦津説の特徴

葦津は、国家神道Aの内容は「帝国政府の「国家神道」そのものが変わったのではなくして」(葦津、P186)、この在野国民の神国思想の高まりが、「帝国政府の法令に基づく国家神道」の世俗合理主義、「内務官僚」的な統制主義に対する「精神的圧力」となって国体カルトのイデオロギーイデオロギー装置としての国家神道を構成していったと捉えている。
神道指令は、この「在野国民の神国思想」を「国家神道」と誤認したというのが葦津の主張だが、なぜ少なくない数の人々がそれを国家による強制と感じ、戦後、神道指令の定義(=国家神道A)を受け入れたのか、「絶対強力な軍権力」だけでは説明がつかないのではないか。

阪本説

阪本の議論は葦津説を継承したもので取り立てて特徴はない。

祭祀の執行と神社の維持以外は何もできなかった神社局・神祇院の官僚と神官・神職。これが制度としての国家神道の本姿であった。神祇院官僚および神官・神職からただの一人も公職追放者がでなかったという事実こそ、制度としての国家神道が「超国家主義」「侵略主義」「軍国主義」等の様々なイデオロギーといかに縁の薄いものであったかの証明であろう。(阪本是丸『国家神道形成過程の研究』、P331)

阪本も国家神道という語の定義を「制度としての国家神道」、すなわち国家統制下の神社神道に限定することで、神社神道神道指令の言うような国家神道ではなかったと力説する。その限りではそうだろう。だからこそ、「制度としての国家神道」を越えて、神社神道を国家統制下におくことを可能にしたイデオロギー(「超国家主義」「侵略主義」「軍国主義」)が、神社神道に含まれる神国思想によって自らを権威づけた点をこそ問題にすべきではなかったのか。