『荘子』天下編の墨子、または強者の倫理

戯れに嫌倫家と名づけたある人が、倫理道徳を語ることには、それを貫き実践する強さが資格となると想定し、自分はそんなに強い人間ではない(世間一般の人もそうでしょ、ね)、と表明したくだりを読んで、ある人物とその思想を連想したので、そこを糸口に脱線して、また古典を読んでみた。
春秋と戦国の狭間の時代に、「ご立派なスローガン」を掲げ、それを実践してのけた言行一致のスーパーマンがいた。墨子である。
兼愛非攻を説き、単に説くだけでなく、現実に鉄壁の防御策と巧みな弁舌によって、大国に侵略の非をさとらせる。その理想のためならいかなる苦難をも厭わず、目的を遂げる。実に頭の下がる人で、後世の人びとからは仙人として崇拝されたというから恐れ入る。
その教説を記した『墨子』も、わけのわからぬ『論語』にくらべれば、「天下の利を興して天下の害を除き」(非楽編)云々と、最大多数の最大幸福のような考え方に立って議論を進めており、はるかにわかりやすい(漢文ではムリだが訳文なら)。合理とか功利といっても現代とはその基準が違うことは前提だが、それでも合理的かつ功利的である。
荘子』天下編には墨子の主張の簡潔な要約がある。

また墨子は、博愛と、ひろく人を利することを説き、戦争を否定した。その道においては、怒らないということを尊重する。また学問を好んで、知識をひろめるという点では、他の学派と異なるところはないが、しかし先王の道に同調せず、上古の礼楽の制度に非難を加えた。(前掲書、p296)

荘周学派によるこの要約の前段はよく知られた墨子像そのままであるが、「先王に同ぜずして、古の礼楽を毀る」という部分が、いま私の関心にある。『荘子』はその特徴を「生きては歌わず、死しては服せず」という。音楽と葬礼を否定したというのである。それは人情に反するだろう、と言うのである(もっともこれは『荘子』天下編でそうであるだけで、荘周の思想とはいえない)。

私は必ずしも墨子の道を全面的に否定しようとするものではない。だが、うたうべきときにうたうのを非とし、泣くべきときに泣くのを非とし、楽しむべきときに楽しむのを非とするのは、はたして人情に近いといえるであろうか。
墨子は、生きているあいだは勤労に明け暮れ、死んではその葬式を粗末にするものである。その道はあまりにも潤いがない。人を憂えさせ、人を悲しませるだけである。これを実行することはむずかしいといわなければならない。おそらく、それは聖人の道とすることはできないであろう。またそれは天下の人びとの心にそむくものであり、天下の人びとの耐えがたいものである。
たとえ墨子だけが実行しうるとしても、天下の人びとをどうすることができよう。天下の人心から離れたものは、王者の道から遠く離れているというほかはない。(p298)

「未だ墨子の道を敗らず」、つまり、反論できていないことを認めながらも、「其の行ないは為し難きなり」、「墨子は独り能く任ずと雖も、天下を奈何せん」、とてもマネはできないよとぼやく『荘子』だが、一方で次のような評価もする。

とはいっても、墨子は真に天下を愛すものである。自分の理想を求めて、それが達成されない場合には、たとえ身を枯れはてさせても、追求してやむことがないからである。やはりすぐれた人材であるといわなければなるまい。(p301)

くどいようだが、『荘子』は墨子の主張を、間違っている、誤りだ、としているのではない。それに、口先だけの偽善だ、と言っているのでもない。たいへん立派だが、立派すぎて、とても多数の人びとがマネのできるようなものではない、と言っている。すなわち、墨子の道は強者の倫理だと言っているのである。
実際は、『韓非子』が「世の顕学は儒墨なり」と評したように、墨家儒家と天下の評判を二分するほどの勢力を誇っていたらしい。そこでその墨家がなぜ、秦による天下統一以降、中国思想史から姿を消してしまったのかが専門家のあいだではいろいろと論じられるようだが、ここではそれはあまり問題ではない。『韓非子』だけではなく、『孟子』でも、『呂氏春秋』でも、墨家が大勢力であることを述べている。これは、墨子の説くところが、荘周学派の難じるほど、多くの人の真似できないものでもなく、耐えがたいものでもなく、むしろ、多数の人々の支持を集めていた、ということを示している。
そうは言っても、その理想主義の実践しがたいことは、墨子の生きている時代から批判の対象であったようで、『墨子』兼愛編には次のような問答が記されている。

わたしには、世人がみな兼愛説を聞いて非難するわけが理解できない。にもかかわらず、天下の人士で兼愛を非難する人の説は、まだやまない。彼らはいう。「兼愛はなるほど慈悲であろう。正義であろう。しかしけっして実行はできない。自分にいわせれば、兼愛の不可能なことは、たとえば泰山を手にさげて、揚子江黄河をとびこえるようなものだ。つまり兼愛はただの悲願にすぎない。実行できることではない」と。墨子先生はこう答えられる、「大体、泰山を手にさげて江・河をこえるなど、むかしからいままで、人類発生以来、なかったことである。一方、例の博く愛し合うこと、互いに利益を与えあうことなどは、むかしの聖人、四人の王者からして、みずから実行してきたことだ」と。(本田斉編訳『墨子講談社、p180-181)

この際、墨子の反論はどうでもよい。「天下の士の兼を非とする者の言」が、かの嫌倫家の言い草を彷彿とさせるところが面白い。
どうやら嫌倫家の言い分とは、古来からあるパターンを踏んでいるようだ。まず、理想が掲げられると、言うことは立派だができるわけがない、現実的ではない、という批判がなされる。それをやってみせられたり、実現への筋道を具体的に示されたりすると、次には、それができる人は特別な人だ、強者だ、一般人にはとてもまねできない、というレッテル貼りが行われる。
こういうところを見ると、人間の言い訳の仕方は何千年もの間たいして進歩してないのだなあ、と、ちょっと残念に思われる。