『荘子』生きては歌わず、死しては服せず

荘子』天下編は墨家の理想主義に一定の評価を払いながらも、その実践主義が世間一般の人の生活感情から遊離したもので「其の行ないは為し難きなり」と、それが強者の倫理であることを難じている。
これについて昨日のコメント欄に、id:VanDykeParks2さんから、それは荘子の思想の核心ではないのではないか、とご指摘をいただいた。おっしゃるとおりである。
荘子』天下編は、雑編の最後に付録のようなかたちでつけられており、研究者によれば、後代の荘周学派によって書き足されたものだろう、とされている。その内容は、諸子百家の主張を道家の立場から要約整理して批評したものだが、その中には、荘周その人についてまでも述べられているのだから、この点からしても、荘周自身、あるいはその直弟子たちの手によるものではないだろうことは確かである。この点をはじめに断っておくべきだった。
しかも、資料の形式面のみならず、その思想内容においても、墨家を批評する天下編の立場と、『荘子』のその他の各編では隔たりがある。
天下編では墨家の特徴を「生きては歌わず、死しては服せず」とし、「うたうべきときにうたうのを非とし、泣くべきときに泣くのを非とし、楽しむべきときに楽しむのを非とするのは、はたして人情に近いといえるであろうか」、そうしたストイックな倫理は、一般の人びとには耐えがたいものだ、と言う。
しかし、『荘子』至楽編には、妻に先立たれた荘周が盆を叩いて歌っているのを、弔問に訪れた友人・恵施が呆れて、苦労をともにした妻が死んで泣かないのはまだしも盆を敲いて歌うとはあんまりじゃないか、と、とがめる場面がある。それに対する荘周の答えはこうである。

いや、そうではないよ。妻が死んだばかりのときには、わしだって胸がつまる思いがしないではいられなかった。だが、よくはじめからのことを考えてみると、人間はもともと生のないところから出てきたのではないか。生がないだけではない。もともと形もなかったのだ。いや、形ばかりではない。もともと形を構成する気というものさえなかったのだ。
そのはじめ、天地が混沌の状態にあったとき、すべてのものがまじりあっているなかに変化が生じ、そこに気が生まれた。その気が変化して形を構成し、その形が変化して生となったのである。ところがいま、もう一度変化をくりかえして、形のある生から形のない気へ、気からまだ気のなかった混沌の状態、つまり死にかえっていったのだ。これは春夏秋冬の四季の循環をくりかえすのとまったく同じではないか。
それに、せっかく天地という巨大なへやのなかで、いい気持で寝ようとしている人間に向かって、わしが未練がましく大声で泣きわめくようなまねをするのは、われながら天命をさとらぬしわざに思われる。だから、泣くのはやめたのだよ。(森三樹三郎訳注『荘子』外篇、中公文庫、p238)

このように、歌はともかくとして、死者の喪に服することについての荘周の態度は、とても世間一般の感情からはかけ離れている。なお、葬式で、歌を歌うエピソードは太宗師編にもある(森訳注『荘子』内篇、中公文庫、p176-177)。そこでは葬礼を重視する孔子の弟子・子貢が、世俗の礼にとらわれた者としてからかいの対象になっている。葬礼についての態度という点から見れば、荘周は墨子とともに儒家の対極にある。
このように荘周の立場からすれば、死は人間が自然に帰っただけのことで、ことさらに嘆き悲しんだり、儒家のするような大げさな葬儀を営んだりすることは、あまり意味のないことである。だから、墨家が葬儀を粗末にすると言って非難する天下編の主張は、荘周自身の思想によるというよりも、世間一般の墨家についての評判を伝えるものとして受けとめておいた方がよいかもしれない。
また、ついでに言うと、墨子が否定した「楽」と、荘周が盆を敲いて歌った歌とは、性格の異なるものなので、これもあわせて「生きては歌わず、死しては服せず」という天下篇の墨家評は、荘周自身の墨子への批判としては論点がかみ合わない。やはりこれは後世の荘周学派による墨家への批評というべきだろう。墨子自身の説は後日、改めて検討したい。