教育基本法改正問題について

3月14日付け記事の付記

お調子者の私は、追われていた仕事を首尾よく片付けた上機嫌も手伝い、日頃より敬愛するid:sava95さんのヨイショに乗っかって(savaさんも力持ち!)、安倍議員の発言を揶揄するような調子の記事を書いてしまったが、教育者や研究者の方々からまで思わぬトラックバックをいただき、いささかうろたえている。
あれはあくまでも同議員の教育観が報道されているようなものだったとして、その前提に立てば教育基本法改正という政治判断は、教育基本法を読んでいないか、読んでも意味がわからなかったか、あるいは同法を改正すべしという結論先にありきで理由はどうでもよいと考えているような人でなければ思いつかないだろうから、総理大臣候補と目されるような高名な政治家にしてよもやそのようなことはあってはならない、ということを指摘したまでであって、私自身の積極的な意見というわけではない。
私は教育者でもないし、教育学の研究者でもない素人なので、学校の実状やデータを踏まえない素人談義をするのは差し控える。だが、素人でもすぐに気がつくような矛盾した理由によって、教育基本法のような重要な法律が改正されることは、法治国家として好ましくないと思っている。
ついでに言えば、現在の学校教育のほとんどは、国会で定められた教育基本法ではなく、文部科学省が少数の委員の意見を聞いただけで決める学習指導要領を基準に行われていることは素人でもわかることである。もし実効ある教育改革を真剣に考えるのならば、学習指導要領の内容を再検討すべきはずだろう。
この点については、現職教員のfivefogsさんがハッキリおっしゃっている。

損得を超える価値、家族のきずな…学校ではちゃんと教えてますよ。週1回の「道徳」の時間で、毎年1回づつ。

教え方が足りないというのなら、学校教育法か学習指導要領の改定で十分です。

“国に貢献する”…これ、どういう意味か、みんなわかってきていますよね。教育基本法を変えたい理由はこれでしょう?それを隠して、今の学校現場に責任転嫁してほしくないですね。
http://d.hatena.ne.jp/fivefogs/20060312より)

ところが、教育改革の旗振り役になりたがっている政治家はどういうわけだか、学習指導要領ではなく教育基本法を変えたがる。こんなあからさまな見当違いを政治や行政の専門家がするなんてにわかには信じがたく(まさか「控えめに言ってもアタマが弱い人」by.annntonioさん、ではあるまい)、よもや学習指導要領の問題点から世間の目をそらすための議論ではあるまいかと疑いたくなるほどだ。あるいは、「まったく関係ない問題を掲げて、自分が嫌う対象をねじ曲げようとしている」(by umetenさん)のだろうか(http://d.hatena.ne.jp/umeten/20060314 )。
それも、学習指導要領に一致するように教育基本法を変えよ、という声まであるそうだから恐れ入る。これでは、選挙違反が絶えないから公職選挙法の規定を緩めろ、と言っているのに等しい。国会議員たるもの、少年犯罪を憂慮する前に、自らの順法精神の劣化を反省した方がよいのではないか。

この問題についての素直な感想

しかし、矛盾を正しさえすればよい、というものでもない。
素人なりの考えを申し述べておくと、私は現行の教育基本法が万全なものだとは思っていない。
私自身の意見は、annntonioさんのhttp://d.hatena.ne.jp/annntonio/20060314/1142351337の分類に従えば、「(イ)=「『国を愛する』も『国を大切にする』もダメ。こういう表現を抜いてなら教基法を改正していい」」に近い。近い、というのは、問題は愛国心教育の是非だけではないからであり、総合的に見ていじらない方がよい、というのが、この問題についての素直な感想だからである。
理由は、x0000000000さんが書いておられることに関係してくる。

それでは、「私自身の価値」や「あなた自身の価値」や「誰か個人自身の価値」は損得を超えた価値ではない、というのだろうか。私が、私自身をかけがえのない価値だと思うことを、安倍氏は否定するのだろうか。自分も他者もそれぞれに「かけがえのない価値」を生きるからこそ、そのために「損得という価値」もまた重要になってくる。むしろ、ある特定の「損得を超えた価値」を「絶対的なもの」として教え込むことこそが、教育を批判に開かれた場所にするのをことごとく妨げるのではないか。
http://d.hatena.ne.jp/x0000000000/20060314/p3より)

私はこのご意見に賛成する。
そうであるからこそ、昨日引いたように教育基本法が第1条で教育の目的を定めていることに疑問を持つ。

第一条 (教育の目的)  教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。

この条文は個人道徳としてはたいへん立派だけれども、そして「平和的な」という形容はされているけれども、しかしやはり「国家及び社会の形成者として」の「国民の育成」に教育の目的が限定されていることを見落とすべきではない。これは、誰のための福祉か、ということにもかかわってくる問題だと思う。
私はアナーキストではないので、現状を鑑みて、当面は国家という枠組みは維持されてしかるべきだと考えている。ただ、国家といい、国民といい、その形も内容も構成も流動的でしばしば変わってきたということは歴史の教えてくれるところである。戦後生まれの私は自分の住む国のあり方が大きく変わったところを目の当たりにしたことはないが、私の父母や祖父母はそれを見ている。
ところが、往々にして、とくにほとんど政権交代のない国では、国家というと、現状の国のあり方、わけても行政府と政権与党のことばかりがイメージされやすい。おそらく、国家に貢献することの尊さを教えるべきだと吹聴している人の念頭にある国家像もそういうものだろう。そうだとすると、「国家及び社会の形成者として」の「国民の育成」を教育の目的として法で定めることは、x0000000000さんの危惧されるように「ある特定の「損得を超えた価値」を「絶対的なもの」として教え込むこと」になってしまいかねない。
「損得を超えた価値」はある。それはなにも神秘的なものではなく、日常にありふれたものとして、いくらもある。
この点については、やや文脈は違うが、
sumita-mさんのhttp://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060314/1142359419
kmizusawaさんのhttp://d.hatena.ne.jp/kmizusawa/20060314/p1
も参照されたい。
「損得を超えた価値」は、その種類も実にいろいろで、その多くは「損得という価値」と共存しており、また共存しているもののうちのほとんどは損得という側面からも測ることもできる価値でもある。これは難しい話ではなく、日常生活を観察していれば、誰しも思い当たることではないだろうか。
たとえば、家族への愛といっても、この家族の一員でいることの快さという快・不快の損得を測る場合もあろうし、地域社会や国家への貢献にしても自分の所属する地域あるいは国家が栄えれば自分も潤うという側面もまったくないとは言い切れない。現行の教育基本法がうたっている「真理」や「正義」、「個人の価値」についても同様なことがいえる。それが現実だろう。
こうした俗っぽい現実を否定するほど「損得を超えた価値」を想定するとしたら、まったく無私の自己犠牲の精神を要求することになる。政府が教育を通じてそのような自己犠牲の精神を国民に要求することは、民主主義国家としてはいかがなものであろうか。
もし、教育基本法を改正すべし、という政治的要求が、国家に対する自己犠牲の精神を国民に教えたい、という欲望から発したものであれば、私はそれに反対である。そして、fivefogsさんのおっしゃるように危うい方向に進む可能性は高い。しかも、教育基本法改正論の背景には、同法は国民道徳の指針であるべきだ、という意見も有力であるやに聞いている。そうだとすると、ことは学校教育に限られるものではない。
私は自分のすべてを国家に捧げるほどの道徳的な強者ではないし、政府の政策に不満があっても批判せずにすむほど満ち足りてもいないし、政治指導者の浅薄な発言にいやみったらしい陰口をたたかずにすませられるほど潔癖な人間でもないので、現与党内で議論されている方向での教育基本法の改正には反対する。この判断は、現行法第1条への私の疑問と矛盾しないばかりか、むしろその疑問の延長線上にあるはずだと考える。
疲れているし、あわてて書き飛ばしたので、生硬な文章になってしまったが、取り急ぎ意見表明のみ。