誰かの善意

x0000000000さんより、仁の端を家族から友人・同僚、地域社会の隣人、やがてはすべての人びとにまで、同心円的に波及させていく孟子の発想について、面白いコメントをいただいた。
http://d.hatena.ne.jp/x0000000000/20060319/p2
x0000000000さんによれば「現代にも全く同じタイプの人間がいる」そうだ。「彼の名は「空想的サヨク君」」。いや、たしかに、そういわれてみれば思い当たる節がある。善意が先走っている人、世界の平和は一人一人の心から!みたいなスローガンを臆面もなく言える人、たいていは真面目で正直な愛すべき人物なのだが、ちょっとスピリチュアル系のトンデモな思い込みがあったりして、ときにけむったい感じも周囲に与えてしまう人、一昔前なら小さな親切・大きなお世話と言われてしまうような、そういう人のことを指すのだろう。
そして、x0000000000さんは「空想的サヨク君」の問題点を挙げる。

彼は、要介助者が街で困っているのを見かければ、誰しも思わず助けようとするだろう、と言い、その気持ちこそが「善意」の萌しだという。
この「善意」の端を、家族から友人・同僚、地域社会の隣人、やがてはすべての人びとにまで、同心円的に波及させていくのが彼の考える「善意」による「社会の変革」である。
しかし、この論では「無償の善意」が賞賛されることになり、善意の押し売りの問題、すなわち要介助者と介助者の非対称性の問題や、「善意をもたない人に対する心の強制」の問題が残る。何よりも重要なのは、こうした共同体主義が小さな政府論と結果的に符合してしまう点にある。つまり、善意のボランティアというものを称揚する結果として、手厚い社会保障を制度化したくない側と親和的になり得るのだ。

この問題点の方は、孟子に聞かせたらびっくりするに違いない。なにせ孟子にとっては、彼の説いている相手は君主なのだから「要介助者と介助者の非対称性」は正統化されるべき当然の秩序であり、「善意をもたない人」は人に非ずなのだから論外、共同体主義は政策理念というより目の前の現実にすぎない。
しかし、現代で『孟子』なりなんなり、古典を読むということは、それが書かれた当時には想定もされなかった文脈に古人の知恵を置き直してみるということでもあるのだから、こうした問題を全く念頭におかないとしたら読む甲斐がないというものだろう。それに気づかずのんきに本を読んでいた私は、いささか時代錯誤に陥りかけていたということかも知れない。
そこで少し、x0000000000さんの想定問答をお借りして『孟子』に対する自分の感想を書き留めておく。

さらに、考えられ得る反論に対して答えておこう。お前は善意を否定するのか、という反論である。お前自身はパレスチナで戦火に苛まれる子どもたちを見て、あるいはインドのストリートチルドレン、日本においても野宿者などを見て、いたたまれなくならないのか、と。しかし、この反論は的を外している。僕は、善意それ自身を否定しない。問題は、「誰かの善意をあてにして設計された社会が、果たして正しい社会であるかどうか」にある。僕だって、先日書いたように、それらの問題の被害者にほんの一瞬だけでも「善意」を持つこともある(「ほんの一瞬」であることに関する「現実」と「倫理」については、先日考察した)。そしてそこにこそ可能性を賭ける、とも述べた。

ここまでは孟子の「惻隠の心」とさして違わない。ただ、「問題は、「誰かの善意をあてにして設計された社会が、果たして正しい社会であるかどうか」にある」。x0000000000さんは「果たして正しい社会であるかどうか」を問うている。孟子は個人の善意がすみずみにまで及ぼされた社会を理想としているが、x0000000000さんは「特定の人が過度なコスト負担をしていることを前提にした社会」は「正しい社会」ではないとお考えのようだ。しかし、だから善意など意味がない、あるいは偽善にすぎない、と短気なことはおっしゃらない。むしろ、誰かの善意をあてにする社会は不正だからこそ、と次のように切り返す。

だからこそ、何かを無償で負担するという活動は、ある特定の人のみが負担していることが不正義であるという観点を逆照射しているという意味において、肯定的に捉えられるべきなのではないか。そして、「誰か特定の人が過度の負担をしなくてもよい社会」のためにこそ、いまコストを背負っている人がそれぞれの地域で踏ん張っている、こういうふうな見取り図なのではないか。

孟子が聞いたら、聖人の道から逸脱して管仲墨子に近づく異端として糾弾されようが、実を言えば私もx0000000000さんのお考えに近い。
近い、などと奥歯に物の挟まったような言い方をするのは他意があるわけではない。x0000000000さんが障害者問題というのっぴきならぬ問題のただ中に身をおかれて真摯に思考されているのと違い、私はいささか傍観者的な場所にいて世をすねて本を読んでいる、その違いがあるだけだ。x0000000000さんが「誰かの善意をあてにして設計された社会が、果たして正しい社会であるかどうか」と問いかけるその同じ場所で、私は「誰かの善意をあてにして設計された社会など、果たして可能か」と考える。
孟子は「人皆忍びざる所(惻隠の心)あり」と考えた。根っからの悪人などいないという点では私もそう思うが、根っからの善人もいないということもありそうなことであり、惻隠の心といっても、いつでも誰でも萌すとは限らない、と私は思う。押しつけがましい善意をふりまく「空想的サヨク君」などむしろ少数派で、他人のことなどかまっていられないという方が大多数なのではあるまいか。
孟子が仁の道を説いた斉の宣王は、強大な政治権力を持つ君主である。統治者と被統治者の関係は非対称性どころか、垂直に近い上下関係だ。王は犠牲の牛に対してと同じように治下の人民に対して恩恵を施すことができた。だから当時の知識人には、王一人さえ丸め込めば理想の政治を実行できた、つまり誰か(王)の善意をあてにして社会を設計することは可能だった。結果的にはみな失敗したとはいえ、そのチャンスはあった。
現代ではこうはいかない。道を説くべき相手がたくさんいる。しかもその大多数は古代の王と違って名君と呼ばれたいなどという大それた望みを持たないから説得が難しいうえに、一人一人はたいてい無力で、仮にそのうちの何人かが仁の道を目指したとしてもできることはたかが知れている。可能なかぎりの多数を聖人君子に仕立てあげなければ、善意をあてにできる社会など実現できない。
だからこそ、x0000000000さんのいう「誰か特定の人が過度の負担をしなくてもよい社会」が目指されてしかるべきだし、実現の可能性の高い、現実的な道なのだと思う。それは言い換えれば、「誰かの善意をあてにしなくてもよい社会」なのである。
しかし、誰かの善意をあてにしなくてもよい社会をつくるためにもある種の意志が必要となる。それはいわゆる「善意」ではないかもしれないが、やはりなんらかの人間の心のはたらきであるはずだろう。x0000000000さんによれば「このことをアマルティア・センはすでに「共感」ではなく「コミットメント」という概念を用いてより説得的に議論している」のだそうだ。私は不勉強でセンのことはノーベル賞をもらった偉い経済学者、という程度のことしか知らないし、センの「コミットメント」という概念がどんなものかもわからないので、また、しばらく時代錯誤でも「共感」の方にこだわりながら(その限界を見定めるためにも)本を読んで考えたい。