情けは人のためならず

私は『孟子』の「惻隠の心」の同心円的波及に、ベルクソンが「魂を全く主知主義的に理解することに由来する先験的な推論である」と評した考え方を連想した。
「われわれの共感は、このような漸進的進歩によって拡大し、同一のままで増大し、ついには人類全体をも包含することになろう」という発想をベルクソンは批判している。『孟子』の「惻隠の心」は世間一般によく見られるこの考え方にそっくりだと思ったが、参考にした『道徳を基礎づける』でジュリアンはルソーの「憐れみの感情」と比較して「ルソーは孟子とそっくりである」と言っている。

わたしたちの行ないの中にあるこの根源的な心の動きがどう広がるかを見ると、両者の比較を最後の地点まで推し進めることができる。ルソーが言うには、「一般化され」、「全人類に広がる」ことで、この初発の心の動きは公正さへと開かれる。中国では、すでに見た通り、「人間らしさ」(仁)と「公正さ」(義)が対になって考慮され、その後のすべての伝統は、この二つの補完関係を思考し続けていった。同様に、ルソーにおいても、「憐れみが弱さに堕してしまわないように」、「正義と一致するかぎりにおいて」のみ、人は憐れみに身を委ねるべきである(『エミール』中p.122)。なぜなら、「隣人に対するよりも、人類に対していっそう憐れみを持つ」べきだからだ。規模を変えても、根源的な心の動きが損なわれることはない。その感応する力は、少しも減ずることなく、理により調整される(感incitation−理regulation、この二つの概念は、中国では対になっている)。根源的な心の動きはこうして広がり、社会の基盤になっている。(ジュリアン、p47-p48)

ベルクソンなら、隣人に対する憐れみと人類に対する憐れみとの間には、程度の差ではなく質的な差がある、と抗弁するところだろうが、いまその点は棚上げにしておく。こうしてジュリアンは孟子とルソーの類似を協調するが、相違点の指摘も忘れない。ルソーの「憐れみは利己主義に転じる」、という。

わたしが「自分に似た人と自分を同一視し」、「いわば自分をその人の中に感じる」としても、それは実際には「自分が苦しまないためにこそ、その人に苦しんでほしくない」のだ。別な言い方をすれば、「私がその人に関心を抱いている」としても、それは単に「自己愛のため」である。(ジュリアン、p51)
ルソーが自己愛を基盤として人間を考えているかぎり、憐れみはその一つのヴァリエーションでしかないからである。(p52)
したがって、ルソーは他者を感じる人間を記述することはできたが、人間が自己との関係によらずに、どうやって他者を感じられるのかは説明できなかった。(p52-p53)

この問題に対してジュリアンは、「中国的な理論の道具立て」によれば「憐れみを相互作用のプロセスという角度から見て、個人横断的な現象として理解すること」で、その困難を「解きほぐす」、「それによって、憐れみは、よりよく読解できるだけでなく、イデオロギー的な次元でのメッキを剥がされる」という(p61)。
ボランティアなんて結局自己満足のためでしょ、という苛立たしげな声は探すまでもなくどこにでもある。ジュリアンが、ルソーの「僕ってホントは悪い子」的発言に孟子を対置して指摘しているのは、それは言われてみればその通りなのだが言われなければそうではないということ、つまり、自己愛による理由付けは反省の段階で生ずるものであって、憐れみの反応が起きるその時にはそんな理屈はこねていない、ということである。

それは弱さではない。他人を脅かすものを目の前にして湧き起こる、この忍びざる反応は、すぐさまわたしたちの存在の共同性を呼び起こし、生そのものであるこの結びつきを――わたしたちの間で――再活性化するのである。(p62)

ただ、すでに疑問を呈しておいたように、この反応が自然的なものなのかどうかはわからない。孟子はそれこそが人間の本性である、と考えたが、はたしてそうか。なるほど、わたしたちの存在は共同的であるし、その結びつきは生そのものであるようにも見える。しかし、それならばなぜ、共同性が再活性化されるのか。再活性化されるということは、平常は仮死状態にあるということではないのか。
疑問は尽きないが、仕事が忙しくなるのでここらで小休止。

付記

老子』の次の言葉を連想したのでメモしておきます。

大道廃(すた)れて、仁義あり。智恵(ちえ)出でて、大偽(たいぎ)あり。六親(りくしん)和せずして、孝慈(こうじ)あり。国家昏乱(こんらん)して、忠臣あり。