新旧雑感

最近、よく思うことだが、少なくとも思想史(文学史や美術史もそうだろう)においては、歴史上の後者(新)が前者(旧)を包摂、あるいは超克しえていると考えたらとんだ勘違いになる。
学生時代に廣松渉のことを、「まるで新カント派」と揶揄している文章を読んでびっくりしたことがあった。確か浅田彰氏だったような気がする。
廣松は当時の大先生で、哲学科の学生の間では、今で言うと野家啓一大庭健熊野純彦宮台真司柄谷行人の各氏を足して5を掛けたくらいのオーラを放っていた。
これまた当時は、ヘーゲル以前・以後という分水嶺を設定して近代と現代を分ける哲学史観がまだ通用していたので、広松哲学を新カント派呼ばわりするのは時代遅れと貶したも同然でたいへん挑発的なことだった。
が、いまになって思い返すとカントで何がわるいと思う。
あれから二〇年以上経ったけれども、対カント戦は、現在も延長何回目だかの試合を続行中ではないか。
会社員になってしばらく遠ざかっていた哲学の読書に十年ほど前に復帰してから目についたのは、ロールズであり、アーレントであり、ベンヤミンであり、後期フーコーだったが、みなカントと格闘している。彼・彼女らが古いと言いたいのではない。それぞれに自らの課題を考えるなかでカントに取り組んだのであろう。その意味では、みな横一線のところにいるのではないか。
哲学は、いまだにプラトンアリストテレスが呼び返されて当然のジャンルである。
進歩史観が正しければ、東洋思想も『論語』より『孟子』、『孟子』より『荀子』、さらに時代を下って朱子なり王陽明なりを読めばいいことになるが、そういうものではない。
大乗仏教の場合は、末法思想という一種の退歩史観があるから事情は複雑だが(「あるから」というより「あるのに」と言うべきか)。
などと殊勝なことを思いながら、ではあらためてカントを読んでいるのかというと、そうではなくて実はドストエフスキー『悪霊』を読んでいるところです。