一応mitibosatuさんに

先日の「泣き言」にいただいたコメントで、id:mitibosatuさんから「中・長期的スパンで考える必要ありというのに同感です。でも、「動きを、冷静に企画・開発する」という発想が難しいと思われるのはなぜなのでしょう?」というお尋ねがありました。
あれは短気ですぐ切れる大人げない中年のよくある反応で、まあ、ちょっと不愉快なことがあったものですから、mitibosatuさんの日記にかこつけてannntonioさんにいつもの八つ当たりをしただけなので、ボケ中年がまたなんかいってるよ、とご笑覧にとどめておいてくださって結構かと思うのですが、せっかくのお尋ねですし、うっとうしいなんて思っていないことを示すためにも、ちょっと自分の尻ぬぐいをさせていただきます(あの程度では食い下がったうちに入りません。私が食い下がられたと思ったのは、かつてid:mushimoriさんという方にいじめられたときです。それはそれは怖い経験でしたブルブル)。ちなみに私もブログ初心者で、ときどき暴言を吐いてはいたたまれなくなり、プライベートモードにしています。
だから、これはmitibosatuさんへの私信のようなものなのですが、今日、たまたまナマmitibosatuさんとお会いできたので、ここに書き出すほどのこともないのですが、ぎゃあぎゃあ泣き言を言っていたら、id:holyagammonさんからトラックバックまでもらっちゃってるので、なんとかお約束を果たそうと思った次第です。
明日、来週、来月、来年くらいまでであれば、annntonioさんのいうように「動きを、冷静に企画・開発する」ということには大いに意味があることです。それどころか、これは何も市民運動に限らず、私たちが日常生活で行っていることでもあります。
かくいう私も、まことにささやかながら妻の指導の元に仕事をしており、その過程で約半年程度の見通しと、それにもとづいた企画を開発したりしております。「企画・開発」というよりは思いつきレベルのことですが、それでもそれなしには仕事はまわりません。
同様に、たとえば教育基本法改悪に反対する運動についても、そこに連帯している各個人・団体にはいろいろなプランやアイデアがおありでしょう。当然なことだと思います(id:kurahito師なんて、別のところで大車輪のご活躍ですよ)。
ただし、教基法・共謀罪改憲の3K問題は、この一年かそこらで解決ができれば、それはまことに幸いなことですが、どうもそうは問屋が卸してはくれそうにないような雲行きです。場合によっては十年二十年単位のテーマになるでしょう。ですから、中・長期的スパンで考える必要があると申し上げました。
さて、そこで問題になっているのは、運動に個人として参加した際の違和感についてですが、ぐちゃぐちゃ文句を言っておいていうのもなんですが、団体とか組織というものはどうしても閉鎖的になるものです。けれども、だからといってそれを全否定してしまっては、社会運動というものは成り立たないでしょう。文句は山ほどあれ市民団体や労組や政党の参加がなければ、あんころもここまで盛り上がりはしなかったでしょう。
いえ、運動がどうのこうのという前に、これはid:mari-nsbtさんがご自身のコメント欄で書いておられた言葉ですが「人々がローソクみたいに孤立してるさまというのは、決して望ましい社会のありようじゃない」、私もそう思います。
しかし、既成の団体は閉鎖的になりがちだし、団体の内部にいる人はそのことに無感覚になりやすい。そこで問題の重大さに気づいた個人が、いざ鎌倉とおっとり刀で駆けつけても、集会やデモには怖そうな小父さんやお兄さん(あと、小母さん)がたがとぐろを巻いていて、うかつに割り込めないような雰囲気がある。これは人によって感じ方に強弱はあれど、一般的にみられる現象だと思います。
そこでわれらがannntonioさんのように頭がよく義侠心に富んだ人は、何とか諸個人が各個性を活かして参加できるあり方はないかと考えてくださろうとするわけです。それは大変にありがたいことなのですが、ただしそれは短期スパンにおいてこそ有効な頭の使い方ではないでしょうか。
これからの十年、何がどうなるかはわからないのです。おおざっぱな見通しはもてても精密な予測というものはあり得ない。そうした中で、具体的に何をどうするかについて企画・開発しても意味がないことが多い。
だから、中・長期的スパンで具体的に何をすればよいかということは、さまざまな立場から短期スパンでの「動きを、冷静に企画・開発する」試みが行われ、その試行錯誤の積み重ねの果てに、後から振り返ってみたときに「ああ、この道筋だったんだなあ、この形がしっくりきたんだなあ」と納得するような動き方が回顧的に再発見されるようなものであって、いかにannntonioさんの回転の速い頭脳をもってしても、企画・開発することは難しかろう、と僭越ながら申し上げたのです。
ただし、中・長期的スパンで考えることは今日明日の動きには無縁かというとそうでもない。さまざまな人がさまざまな立場から試行錯誤する、その多様性を支えるのが中・長期スパンの見通しの多様性なのだろうと思います。
そうしたさまざまなアイデアを既成の運動(あんころももはやそうです)の閉鎖性に愚痴愚痴文句をたれ嫌みや皮肉を投げつけながら、こつこつやっていくほかないだろう、とかように愚考する次第です。
ちょっとお応えになっていないかもしれませんが、日付ももう変わりそうなので、今夜はここまでにいたしとうございます。
ちなみに、私が教育基本法改悪に反対する一番の理由は、「子どものため」ではなく、これがもっとも露骨で凶悪な言論統制だからです。言いたいこと言って暮らしたいもん。