ドゥルーズについてのメモ

昨日の研幾堂さんとのおしゃべりのなかで、うろ覚えで話したことが気になったので自分のために確認。
以下の引用の発言者はドゥルーズ、1990年に行われたネグリによるインタビュー「管理と生成変化」より。

さきほどのご質問は、管理社会やコミュニケーション社会の時代になると、新たな抵抗の形態が生まれるのではないか、そうなれば、「自由な個人による横断的な組織」として構想されたコミュニズムが実現する可能性も出てくるだろう。というものでした。どうでしょうか。あるいはおっしゃるとおりになるのかもしれません。しかしそのことと、マイノリティが発言しはじめる可能性とは無関係なのではないでしょうか。言論も、コミュニケーションも、すでに腐りきっているかもしれないのです。言論とコミュニケーションはすみずみまで金銭に浸食されている。しかも偶然そうなったのではなく、もともと金銭に毒されていたのです。だから言論の方向転換が必要なのです。創造するということは、これまでも常にコミュニケーションとは異なる活動でした。そこで重要になってくるのは、非=コミュニケーションの空洞や、断続器をつくりあげ、管理からの逃走をこころみることだろうと思います。(『記号と事件―1972‐1990年の対話 (河出文庫)』p352)

ついでながら、このあと、ドゥルーズはこんなことも言っている。

世界の存在を信じることが、じつは私たちにいちばん欠けていることなのです。私たちは完全に世界を見失ってしまった。世界を奪われてしまった。世界の存在を信じるとは、小さなものでもいいから、とにかく管理の手を逃れる〈事件〉をひきおこしたり、あるいは面積や体積が小さくてもかまわないから、とにかく新しい時空間を発生させたりすることでもある。それをあなたは「ピエタス(仁愛)」と呼ばれたわけです。抵抗する能力はどれだけのものか、あるいは逆に管理への服従はどのようなものなのかということは、各人がこころみた具体的な行動のレベルで判断される。創造〈と〉人民の両方が必要なのです。(前掲書、p354-p355)

僕が学生だった80年代は、ドゥルーズの本格的な紹介がはじまった頃だったわけだけれども、浅田彰氏の『逃走論』(という題名)に象徴されるように、「逃走」というキーワードが強調されていた印象がある。
けれども引用した文を読み直すと、ドゥルーズは「創造」ということも同時に言っている。
いま、ネグリマルチチュード論(コミュニケーション社会の時代の新たな抵抗の形態・人民)が盛んだが、ドゥルーズが「創造〈と〉人民の両方が必要なのです」と言っているのは興味深い。