黒猫房主さんへ

先日のくだらない話(http://d.hatena.ne.jp/t-hirosaka/20071122/1195749696)に、kuronekobousyuさんから長文の応答をいただいて困惑しています(迷惑はしていません)。
http://d.hatena.ne.jp/kuronekobousyu/20071124/p1
困惑、というのは、一カ所、私の意図とは逆に読まれたらしいところがあるからです。
私の文章が拙いが故のことで、かえって黒猫房主さんにもご迷惑をおかけすることになったのではないかと恐縮します。
ただ、私のことについてであれば、黒猫房主さんに「いやあ誤解っすよ」と言えばすむのですが、問題は私が引いた研幾堂さんの文章(http://d.hatena.ne.jp/kenkido/20070924)への私の受け取り方についてなので、ここはどうしても第三者である研幾堂さんにも関わってきてしまう。そこで急ぎ弁明しておきたいのです。
心配しているのは次の文章です。

その辺りは、t-hirosakaさんご指摘の<基本にしなければ、というのは、、研幾堂さんも指摘しているように、現実になされているところの政治を語る言葉には、感情的要素も含まれており、passionなしに「何らかの深刻な問題が起きた時、その改善を訴える」とか、「窮状の告発」とかがなされるとは思えないからである>ということになろうかと推量します。

引用していただいた文章で、私が研幾堂さんの主張にあえて「基本にしなければ、というのは、、」と変な留保を付けたのは(、が一つ多いですね)、確かに私にも研幾堂さんの物言いには理知に傾きすぎるきらいがあるなあ、と感じたからにほかなりません。しかし、まさに「研幾堂さんも指摘しているように」感情的要素なしに「何らかの深刻な問題が起きた時、その改善を訴える」とか、「窮状の告発」とかがなされるとは思えないのであって、彼は政治言説における感情的側面を切り捨てたりはしていないのです。

そして<しかし、その解決はpassionによってはできず、actionによる他はない。そのactionとは、とりもなおさず「経済的な施策か、政治的な方策か、社会構造に即して、これらの解決索を見出すことを目標にする」政治言論である>という理路も、宜成るかな。

ここで私がpassionという横文字を使ったのは、それが受苦や受動を意味するからでもあります。「苦しい」とか「助けてくれ」と叫ぶ次元もすでに救助を求めるという行動の端緒ではありますが、そこにとどまっていては、じゃあこう解決しよう、という話にはならない。

しかしながら、その急迫した<切実さ>において、研幾堂さんのような理性的応接は、人の心を揺さぶらない、ということもまた確かなのでしょう。

研幾堂さんの言論は確かに理性的ですが、しかし、彼の、あの異様とも思える長文、ときに壮士の演説を思わせる擬古文調をまじえた文体、ホームページで公表されているご専門領域とは違うジャンルへの打ち込み方に、私はエモーショナルなもの、それこそ「急迫した<切実さ>」を感じるのです。
ときどきには悲憤慷慨もする。何でこんなに変なことになっちゃってるのよ、という狂おしいような思いがあるのではないか、と読んでいて感じます。
彼の「理性的応接は、人の心を揺さぶらない」かどうかはここでは問題にしていませんし、情緒的に人の心を揺さぶることがいいかどうかも私には疑問ですが、少なくとも私には彼が単なる理知趣味の人、とは思えません。むしろ、奥底にマグマのような情念を秘めながら、温泉はあえてぬるめに調節している、…ん?ちょっとこの比喩は変ですかね。
ともかく、passionの表明だけでは議論の言葉としては不十分である、という点は、研幾堂さんと同意見です。

そして<中には「無感動」(徳としてのアパテイアではなくて情態としてのアパシーの方)という感情の在り方もあって、この感情に取り憑かれていることを自覚せずに、自らを冷静だの中立だのと思いこんでいる節のある議論もまま見受けられる>という、t-hirosakaさんのご指摘は節度ありかつ適切な批判と受けとめます。

で、私がはなはだ心配しているのは、黒猫房主さんのお話の流れですと、上に引用していただいた文章で、私が嫌味を言っている対象「自らを冷静だの中立だのと思いこんでいる節のある議論」が、研幾堂さんのことであるように、ご高論を読んだ方に思われてしまう可能性がありはしないか、ということです。
私が嫌味を言っている対象は、断じて研幾堂さんではありません。
社会問題の解決を知的なパズルのように取り扱う一部の風潮に苛立っての勇み足でした。
臆病な私が特定の人名なり書名なりをあげつらうことを恐れたため、変な書き方になってしまいました。
この点、取り越し苦労かとも思いますが、万一、第三者の誤解を招いたとしたら遺憾でありますので、ここに明らかにする次第です。

ついでにもう一つ。

「それはなにかのかたちでの承認を社会に求める声なのかもしれない。だが、mojimojiさんが言っていたように承認は分配できない」、たぶんそうかも知れない。最初の1回目の承認を除いては。だがそう言ってよいのだろうか?「私を承認しろ」と要求する権利は常に/すでに、誰にでも「ある」というべきでないのか。

「「私を承認しろ」と要求する権利は常に/すでに、誰にでも「ある」というべきでないのか」、はい、まったくその通りです。その権利は決して否定されるべきではないし、誰にも否定することはできない。
しかし、その完全な達成は、政治によっては決して満たされないでしょう。宗教的な領域に踏み込む、あるいは宗教と裏取引することによってでしか、不可能なのではないかと考えています。いったい誰が、全能の神に代わって万人を愛し、救済し得るというのでしょうか。
しかし、このことは、その権利を破棄するように求めることとは違います。権利はすでにある。満たされなくとも要求はある。
例えば、誰もが必ず死にますが、「死にたくない」ということをやめろとは言えません。仮にそう言ったとしても誰かが「死にたくない」と言うでしょう。その声に、無理を承知で応えようとしてきたのが医学だったのではないか、と思います。

すみませんが、これから出かけなくてはならないので、貴エントリへの感想も、拙ブログにいただいたコメントについてのお応えもしないまま、以上の点のみ、急ぎ申し上げておきます。
あわてての殴り書きですので、ご無礼の段、平にご容赦ください。