パトチカ4の続き

同時にまた、性行動においてはオルギア的領域が不可避的に責任の領域に関係づけられるようになることが明らかである。

この一文に躓いて悩んでいたが、通勤電車のなかで「あっそうか」と気付いた。
責任と関係づけようとするからピンとこないのであって、無責任とだったらばおおいに関係する。
性行動におけるオルギア的領域、これは本書の文脈から忘我とも言い換えられる。忘我であるから、性行動の当事者には責任の意識はない。熱狂、陶酔、眩惑の状態で、我を忘れているわけだ。
可愛い女の子を見つけたので声をかけた。「家まで送っていこう」と言って車に乗せたが、ムラムラっと来て押し倒した。事後になって省みれば、Oh,God!俺はなんてことをしちまったんだ、信じてくれ、アレは本当の俺じゃない、と悔やむかもしれないが、ムラムラっと来た瞬間は本当の自分も何もあったもんじゃない。忘我なんである。けれども、その行為に対して、責任は発生する。責任は過去からやってくる、という名文句はどなただったか。
「オルギア的領域が不可避的に責任の領域に関係づけられるようになることが明らかである」という訳文は、「オルギア的領域」が形式上の主語になっているけれども、これに引きずられた私がバカだった。実質上の主語は「われわれ」(パトチカと読者)であるに決まっているじゃないか。
ここは、「われわれは、性行動におけるオルギア的領域を、責任の領域に関係づける、それが避けられないことは明らかである」という意味で読むべきだった。
これなら「魔的なものは、元来はそれと関係のない責任と関係づけられねばならない」という文ともしっくりする。
本人にとってみれば無我夢中で何かに取り憑かれたように行動することはある。それは自覚がないという意味で無責任な行動である。
けれども、無責任とは文字通り責任が無いという意味ではない。その無責任の責任は問われうる。