パトチカ5

この責任との関係づけ、つまり人間的な真正さや真理の領域との関係づけは恐らく、宗教の歴史の胚細胞である。宗教は聖なるものではないし、聖なるオルギアと儀式の経験から直接生じるものでもなく、魔力としての聖なるものがはっきりと克服されるところに存在する。責任を聖性に統合しようとする試み、あるいは聖性を責任によって統御しようとする試みが存在するやいなや、聖なる経験は宗教的経験に移行する。(パトチカ、p164)

「宗教は聖なるものではないし、聖なるオルギアと儀式の経験から直接生じるものでもなく、魔力としての聖なるものがはっきりと克服されるところに存在する」というのは、これは宗教の定義にもよるのだろうが、ここではキリスト教が念頭に置かれているのだと思う。
ちょっと違和感はあるが、とりあえずパトチカにしたがって、聖なる経験の宗教的経験への移行を追ってみる。
「聖なるオルギアと儀式の経験から直接生じるもの」とはなにか、ようやく出てきたエリアーデ世界宗教史〈2〉石器時代からエレウシスの密儀まで(下) (ちくま学芸文庫)』にあたってみる。パトチカがエリアーデを念頭に置いていたかどうかはわからないが、オルギアといえば、やはりディオニュソスだろうということでそのあたりを読んでみた。

ディオニュソス的エクスタシーとは、何よりもまず人間の存在条件の超越、完全な解放の発見、人間には近よりがたい自由と自発性の獲得を意味していた。こうした自由のなかには、倫理的・社会的な次元での禁止や規制や、慣習からの解放ももちろん含まれていたろうし、そこから多くの女たちが参与した理由の一端も説明される。(エリアーデ世界宗教史2』、p284)

ディオニュソス的エクスタシーによって獲得される自由に含まれている「倫理的・社会的な次元での禁止や規制や、慣習からの解放」は、おそらくパトチカのいう「責任」とは違うものだろう。
パトチカはこれまでの主張を要約するようにこう言っている。

神聖/世俗、祝祭/平日、例外性/日常性の対立は、真正なものと非真正なものとの対立ではなく、責任が初めて統御しなければならない問題に属する。(パトチカ、p165)

ディオニュソス的自由が人をそこから解放する「倫理的・社会的な次元」や慣習は、世俗・平日・日常性の次元であり、責任はそれらとディオニュソス的自由とが対立する局面とは違うところから統御するものでなければならない。

ディオニュソス儀礼の中心には、ややかたちは異なっていても、多少とも暴力的な熱狂、狂気のエクスタシー的体験をつねに認めることができる。ある意味において、この「狂気」は入信者が「神に憑かれた」証拠となる。この体験はあきらかに忘れがたいものであった。そのなかで人々は、ディオニュソスのもつ創造的自発性、酩酊させる自由、超人的な力、無敵性などにあずかることができたからである。この神との交流は、暫しのあいだ人間を人間としての条件から解放したが、しかし、それを変えてしまうものではけっしてなかった。(エリアーデ世界宗教史2』、p287)

神との交流によって与えられるディオニュソス的自由は「人間を人間としての条件から解放したが、しかし、それを変えてしまうものではけっしてなかった」というのは、「日常性/非日常性が意味しうるのは、我々が平凡さを免れたということである」(パトチカ、p165)というパトチカの言葉と響き合う。「我々が平凡さを免れたということである」というのは、「平凡さを免れたというにすぎない」というニュアンスではないかと思う。日常性/非日常性の対立は相互補完的なもので、非日常性による卓越性は、真正なものとは言い難い。
パトチカが狙っているのは一種の仮象批判なのだろうか?

日常性/非日常性が意味しうるのは、我々が平凡さを免れたということである。しかし、だからといって我々はまた既に、「我」という言葉が神秘的な示唆によって示すような、自分自身の十全でかけがえのない存在に到達したと言えるであろうか? 我々の考えによれば、我はこの意味での歴史の始まりに現れるものである。(パトチカ、p165)

一方で、パトチカの言う「我はこの意味での歴史の始まりに現れるものである」というのは、エリアーデアポロンの信託について言う言葉を連想させる。

アポロンは人類に、託宣的「幻視」から思考へと続く道を指し示している。あらゆるオカルト的な知識に内包されている悪魔的要素は、祓い浄められたのである。アポロンのもっとも重要な教えはデルポイの有名な言葉、「汝自身を知れ!」に表現されている。知性、知識、知恵は神聖的モデルと考えられたが、それは神々のなかでだれよりもまずアポロンによって与えられたものであった。アポロン的な明晰さは、ギリシア人にとって精神的完全さの、つまりは精神そのものの徴となった。しかし重要なのは、精神の発見によって古くからの数々の対立が解消され、また忘我的で託宣的な技法の修得が完成したということである。(エリアーデ、p147)

もし、ディオニュソス的自由を仮象とし、アポロン的明晰さを「自分自身の十全でかけがえのない存在」(の萌芽)=「我」(パトチカ)、「精神」(エリアーデ)とするなら、パトチカは『悲劇の誕生』のニーチェとは逆の布置で考えているのか?ここは考えどころである。

それは、聖なるものの中で消えることではなく、そこで単純に自分自身を放棄することではなく、日常の正気をもって、またそれが引き起こす眩暈への積極的な勇気をもって、発見された問題性を明らかにする問いの責任ある提起において神聖/世俗の対立全体を生き抜くこと、いかに誘惑的なものであろうとも闇の領域に自己忘却的に転落することなしに日常性を克服することに基づくものである。(パトチカ、p165)

指輪物語』の主人公を連想させられるくだりである。
これが「神聖/世俗、祝祭/平日、例外性/日常性の対立は、真正なものと非真正なものとの対立ではなく、責任が初めて統御しなければならない問題に属する」というときの「責任」のイメージだろう。
鼻水が止まらないので、今夜はここまで。