『人間の学としての倫理学』2−功利主義

シジウィックの楽しいお話について妄想にふけっていたら、頭のいい方々が「擬似科学」をめぐってドンバチ始めたのでびびりました。
さて、和辻哲郎個人主義倫理学として名指ししたシジウィックについて、邦訳はないとこのあいだ書いたけれど、あれは間違いでした。
奥野満里子『シジウィックと現代功利主義』という本の文献リストによれば、戦前に3冊訳されていました(内2冊は明治時代)。古書店にあることはあるらしいのですが、1万円以上して購入はとても無理。大きな図書館に行けばよいのだろうけれど、億劫だなあ。
奥野の研究書の最初の方(p11)にシジウィック自身による倫理学の定義が引かれているので、その孫引きをする。

個人の意志による行為に左右される限りでの、正しいこと、またはあるべきことについての科学または研究

これとこの間も引いた、和辻『人間の学としての倫理学 (岩波文庫) [ 和辻哲郎 ]』におけるシジウィックへの言及とを比べてみる。

シジウィックの言い現わしを借りれば、Ethicsはprivate Ethicsと言った方がはっきりするような個人の善あるいは幸福の学である。すなわち個人としての個人の合理的活動によって得られる限りの、人の善あるいは幸福の研究である。

こうして並べてみると似ているけれども、違う。違うと言っても、和辻が間違っている、というわけではなくて、ただ、シジウィックの構想には別の側面もあった、ということだ。
和辻の「個人の善あるいは幸福の学」という表現では、シジウィックの倫理学は私的な幸福を追求する個人を前提にした倫理学であるようにも思えてしまう。だが、シジウィックの個人は、自由意志の主体という意味のようにも思える。自由意志の主体としての個人の行為は、何も私的な場面でだけ行われるとは限らない。
シジウィック自身の言葉では「正しいこと、またはあるべきことについての科学または研究」となっており、正義、または妥当性が対象となっている。
もちろん、孫引きの片言隻句から、シジウィック倫理学が定義できるなどと自惚れているわけではない。そんなバカなことが出来るわけがない。
シジウィック倫理学は、英国の功利主義の伝統に位置するのだそうだから、和辻が言うように善や幸福をおおいに重視していたことだろう。
それにしても「功利主義」とは、「実用主義」(プラグマティズム)同様、は俗っぽいイメージを持たれやすい損な名前だ。和辻の「個人の善あるいは幸福の学」という表現にしても、和辻自身は功利主義の内実を正確に理解していただろうが、読者に対しては、自分の利益ばかり追求する偏狭な思想というイメージを与えるレッテルとして機能したのではないか。
功利主義に対する誤解は早くもJ.S.ミルが嘆いていた。

功利主義を攻撃する人たちがほとんど認めてくれないことなので、ここでくり返していっておきたい。功利主義が正しい行為の基準とするのは、行為者個人の幸福ではなく、関係者全部の幸福なのである。自分の幸福か他人の幸福かを選ぶときに功利主義が行為者に要求するのは、利害関係をもたない善意の第三者のように厳正中立であれ、ということである。(『世界の名著38』p478)

この直前の頁に、犠牲についてのミルの見解が述べられていて、かつての「姥捨て山」論争を思い出したりもしたが、それは別の話。
要するに、シジウィック自身の倫理学の定義を、功利主義への俗っぽいイメージを抜きにしてながめてみれば、それは、自由意志の主体が為す行為の妥当性を問うものだということだ。
これは、とくに功利主義的というより、例えばカント倫理学にもそのまま当てはまるように思うけれどどうなのだろう。
ともかく和辻にとって、カントやミル、シジウィックらのこうした倫理学は「個人としての個人の」倫理学であり、自分の考える「人間の学としての倫理学」ではないと見なされていたわけだ。
脱線ばかりで、なかなか妄想にまでたどりつかないが、今日はここまで。

自分でレッテルを貼ってはまずいわね

最初はこの記事に「功利主義に対する誤解」というタイトルを付けていたけれど、それでは和辻が功利主義を誤解していると私が主張しているような印象を生んでしまうことに気づいて、あわてて変更しました。
『人間の学としての倫理学』では、功利主義を独立して扱う項目はなく、『倫理学』でも、もっぱらドイツ観念論マルクス主義現象学が参照されています。