アリストテレスの知慮

こんなご時世だからこそ、腰を落ち着けて本を読まなければ、と思って、学生時代に読んだアリストテレスニコマコス倫理学〈上〉 (岩波文庫)』を引っ張り出した。花粉のせいか目がしばしばする上に集中力減退が著しくなかなか読みすすめられないが、通勤電車の中で少しずつ読んでいる。確か2年生の夏休みのレポートの課題図書として買ったもので、一度は読んでいたはずだが、その後、ろくに読み返さずに今に至っている。ようやく上巻の終わりまできた。
アリストテレスの「徳」というものがどういうものだか無知な若者だった私にはよくわかっていなかったような気がする。実は、引っ越しの荷物を片付けていたら、当時のノートが出てきて、どうやら無知な若者はアリストテレス倫理学から「正義」と「愛」を倫理の原理としてピックアップしてそれらを相補的なものとして捉えていたようだ。無論、古代哲学担当教員がそう教えたのかもしれない。
しかし、あらためて読んでみると、確かに正義と愛は多くのページ数が割かれている重要なトピックではあるが、それだけではないし、それは無知な若者が期待したような倫理的思考の原理ではない。アリストテレス倫理学の原理とは、基準という意味でなら「中庸」がそれにあたるだろうし、目的という意味でなら「幸福」がそれにあたる。義務という観念は薄いようだ。
「徳」はあくまでもポリスの指導者たるエリート層の身につけるべき能力、あるいは指導者的キャラクターを構成する美質・特性のようなもので、一時はやった「人間力」のようなものらしい。ハイパーメリトクラシーという言葉から抜き出せるのであれば「ハイパーメリット」がそれにあたるような気もする。

知慮(フロネーシス)

「知慮」についてまったくノーマークだったことが、徳についての私の無理解を示す痕跡としてあった。これについてはノートにもなければ、テキストにアンダーラインも引いていない。どうやらこの思慮浅い若者は知と徳とを異質なものと見なし、知性的な徳などというものは形容矛盾であって無視してかまわないものと速断していたらしい。知と徳とが対立するものであれば、徳は感情に近い位置に押しやられ、正義は正義感に、愛は愛情に、容易に誤変換されてしまう。それを誤変換と気づかないところが無思慮な若者の美徳というべきか悪徳というべきか。

いったい、「われわれの魂がそれによって、肯定とか否定とかの仕方で真を認識(アレーテウエイン)するところのもの」として、われわれは、五つのものを挙げなくてはならぬ。すなわち、技術(テクネー)・学(エピステーメー)・知慮(フロネーシス)・智慧(ソフィア)・直知(ヌース)がそれである。

このうち、アリストテレス倫理学において大きな役割を果たすのは知慮(フロネーシス)である。

「知慮あるひと」(フロニモス)の特徴と考えられているところは、「自分にとってのいいことがら・ためになることがらに関して立派な仕方で思量(プーレウエスタイ)しうる」ということにある。それも決して部分的な仕方で、たとえば、どのようなものごとが健康とか体力とかのためにいいかといったことについてではなく、およそ全般的な仕方で、どのようなものごとが「よく生きる」(エウ・ゼーン)ということのためにいいか、についてである。

この知慮を他の知性(技術(テクネー)・学(エピステーメー)・智慧(ソフィア)・直知(ヌース))に対比させながら話が進む。

知慮は学たりえず、それはまた技術でもない。学でないというのは、行為は「それ以外の仕方においてあることの可能なもの」なのだからであり、技術でないというのは、実践と制作とは類を異にするものなるによる。してみれば結局、知慮とは「人間にとっての諸般の善と悪に関しての、ことわりを具えて真を失わない実践可能の状態」であるほかはない。

技術(テクネー)・学(エピステーメー)と違って、「知慮はそれ自身一つの卓越性ないしは徳(アレテー)」にほかならない、とアリストテレスは言う。
また例えば智慧に対しては、「本性的に最も尊貴なものを取扱うところの、学でもあるし、直知でもあるごときもの」だが、アナクサゴラスやタレスのような智者は「彼ら自身の功益に対して無知である」ので「知慮あるひと」(フロニモス)とは世間では言わないのだという。ついでに、彼ら智者は珍奇なことや難解なことを知っているが「どれもこれも、しかし、役に立たないことばかり」だと世間では言われているとしてあるのも可笑しい。

知慮は、これに対して、「人間的なもろもろのことがら」、そして「それに関して思量することの可能なもろもろのことがら」にかかわっている。けだし、知慮あるひとの機能として挙げられるのは何よりも思量の巧者であることであるが、何びとも「それ以外の仕方においてあることの不可能なことがら」や「何らか目的とするところ−−つまり実践によって到達されうるごとき善−−を持たないようなことがら」に関しては思量しないのである。そして無条件の意味で「思量のすぐれたひと」(エウプーロス)とは、実践によって到達されうるもろもろの善のうち、人間にとって最善なるものに、勘考に基づいて立派に適中しうべきひとをいうのである。

こうしてあらためて読んでみると、アリストテレス倫理学とは学(エピステーメー)ではなく、まさに知慮(フロネーシス)の表現そのものだったのではないかという気がしてくる。

棟梁的な立場からの認識は、これを政治学(ポリティケー)といってよいが、それは、知慮(フロネーシス)というのと同一の「状態」なのであり、ただ、両者は、その語られる観点を異にしている。

アリストテレスにおいて、倫理学政治学は連続したものであり、まさに「その語られる観点を異にしている」だけであることは周知のことである。
眠くなったので今夜はこのへんで。