アリストテレス『政治学』第七巻

久しぶり(25年ぶり)にアリストテレス政治学』のおさらいをした。

さて、最善の国制について適当な探究をしようとする者は、先ず最も望ましい生活が何であるかを規定しなければならない。(中略)それゆえ、先ずいわば凡ての人にとって最も望ましい生活は何であるか、そして次にそれは国にとっても個人にとっても同一であるか、それとも異なっているかということについて一致を得ておかなければならない。(p307)

引用はすべてアリストテレス政治学 (岩波文庫 青 604-5)』第七巻より。

して今はただこれだけのことを本論の基礎として確立しておこう、すなわち、最善の生活とは、それぞれ個人にとっても、一般に国にとっても、徳に即した行為に与かり得るだけの外的善を備えた徳と結びついた生活であるということを。(p310)

「徳に即した行為」とは、(広い意味での)優れた政治的実践のことを指しているようである。孔子なら「君子の道」と言ったところか。

子、子産を謂う。君子の道、四つあり。そのおのれを行なうや恭。その上に事うるや敬。その民を養うや恵あり。その民を使うや義あり。

アリストテレスの言う徳と、孔子の言う徳とを比較しようとしているわけではない。ただ両者とも、称賛に値する政治的行為を「徳」と呼んでいることだけを確認しておいたまで。

なお論ずべきこととして残っているのは、人間の各個人の幸福と国の幸福とは同一であると言わねばならぬか、同一でないと言わねばならぬかという問題である。しかしこのことも明らかである。すなわち、それが同一であるということは誰でも皆同意するであろう。

そうかなあ、まあいいや。
「人間の各個人の幸福と国の幸福とは同一」であり、それは「徳に即した行為に与かり得るだけの外的善を備えた徳と結びついた生活」であり、そして「凡ての人にとって最も望ましい生活」である、というのは、一つの理想のあり方としてわからないではない。
しかし、アリストテレスは最善の国制をもつ国の国民の条件として、次のようなことも言う(第九章)。

国民は俗業民的な生活も商業的な生活も送ってはならないことは明らかである(というのはこのような生活は賤しいもので、徳と相容れないからである)。また最善な国の国民になろうとする者は実際農耕者であってもならない(何故なら徳が生じてくるためにも、政治的行為をするためにも閑雅を必要とするからである)。

社会を構成する全ての人間に、公共的な事柄に関与するための余暇を保障しようという観点には立てなかったのだろうか。
「農耕者たちと職人と日傭取りたちとは国に是非存しなければならぬものであり、戦士たちと議員たちとは国の部分である」とも言う。前者は、最善な国にとって必須ではあるが「国の部分」すなわち国民ではない、と言う。農耕者は奴隷か、異人種の農奴がよいとも言う(第十章p334)。
また、第十六章では次のようにも言う。

しかし生児を棄てるか育てるかということについて言うと、不具者は育ててならないという法律が定められなければならない。しかし子供が多いという理由では、もし慣習の定めによって生児は誰をも棄ててはならないと禁じられているなら、そうしてはならない。むしろ子供を作る度数が制限されなければならない、そしてもしその制限に反して性交がなされた結果、誰かに子供が出来たなら、知覚や生命がその子供に生じてくる前に、堕胎をしなければならない。というのは堕胎が敬虔なことであるか、それとも不敬虔なことであるかが決定されるのは、知覚や生命をもっているか否かによってであろうから。(p354)

こうなると、アリストテレスの言う最善の国制とは「凡ての人にとって最も望ましい生活」だというのも、「人間の各個人の幸福と国の幸福とは同一である」というのも、ずいぶんと怪しくなってくる。その理想とするところに不適当と思われる人々を国民の枠から閉め出すことによって維持される最善の国制とは何か。
これはアリストテレスが生きた時代の現実が反映しているためであって、彼の思想の本質ではないという弁護論も可能かもしれない。
しかし、和辻哲郎が『人間の学としての倫理学』で指摘していたとおり、アリストテレス倫理学政治学と表裏一体のものである。そうであるならば、徳の倫理学は、かかる国制を最善と見なす政治観とやはり結び付けて考えなおさざるをえないのではないか。