アリストテレスの知慮11和辻哲郎の解釈

フロネーシスのおさらいがずいぶん長くなった。
最後に和辻哲郎『ポリス的人間の倫理学』を一瞥しておく(和辻哲郎全集第7巻)。
和辻はイェーガーの研究を参照して、アリストテレスのもう一つの倫理学書『エウデモス倫理学』を『ニコマコス倫理学』に先立って書かれたものととらえ、「晩年のアリストテレース倫理学の原形」「原倫理学」だとする。
その上でフロネーシス(智慧)が『エウデモス倫理学』においては、『ニコマコス倫理学』でのように政治的実践知ではなく「超感覚的なるものを認識する精神力である」ことに注意を向ける。

それは最高の価値を、すなわち神を、超越的に直観する。そうしてこの直観を意志や行為の標準たらしめる。超感覚的なる有の観想的な認識であると同時に、実践的道徳的な洞察でもあるのである。

フロネーシスがこうしたものである以上、それは万人に開かれたものではありえない。「『ニコマコス倫理学』はかかる制約を脱して一般的な道徳の事実を自律的な道徳意識やそこに存する内的な規範から理解しようと試みたのである」。そのかわり『エウデモス倫理学』のフロネーシスの役割を担うのは、『ニコマコス倫理学』では観想的な智慧(ソフィア)である。

かくして『エウデーモス倫理学』は、後期プラトーン倫理学と同じく、「神を万物の尺度とする」倫理学になる。そこには後年のアリストテレースに決して見ることのできない宗教的な情熱が、あふれるようにただよっている。(p300)

このあと、和辻は気になる指摘をしている。

アリストテレース倫理学における重要な問題としての友愛の理論は、本来は右のごとき神の直観との密接な連関のなかから出てきたのである。それは後の『ニコマコス倫理学』においては、人間関係の多様な形式に関する一般社会学的理論、すなわち共同体生活の現象学として豊富に展開されており、神の直観との連関などほとんど気づかしめないのであるが、原倫理学に着目すればこの関係は明白にたぐり出せるのである。(p301)

和辻は、アリストテレスプラトンの善のイデアを経験的な人格において「理想型の概念」としてとらえかえしているとし、「そういう規範的な類型概念の最も重要なものとして「第一友愛」が掲げられ、そこからあらゆる種類の友愛が導き出される」とする。

従って人間関係の超個人的な価値根拠は、プラトーンにおけるごとく友人の人格を離れてしまうのではなく、逆にその人格のなかに集中してくる。道徳的人格性の価値が他の価値と異なった独立性を持たされてくる。すなわちここで神の直観にもとづいた宇宙的な善に対し、人倫の独立の価値が樹立されたのである。この上に立ってアリストテレスは後に友愛の心理学的社会学的な分析を詳細に遂行するに至ったのである。

これらのことが和辻にとって問題とされるのは、アリストテレスにおける道徳論と国家論の関係に関係してくるからである。原倫理学とされた『エウデモス倫理学』が「後期プラトーン倫理学と同じく、「神を万物の尺度とする」倫理学」であるならば、それは政治学(国家論)との直接の関係は薄いと言わなければならない。しかし、和辻にとって、倫理学政治学は密接に関係しているはずであるべきだった。そこで、彼はいろいろと論証して「原倫理学と原国家学とは、密接な連関のもとに、アリストテレースの四十代のはじめのころすでにできあがっていた」と結論するのだが、その当否はしばらく置く。
私が気になったのは「アリストテレース倫理学における重要な問題としての友愛の理論は、本来は右のごとき神の直観との密接な連関のなかから出てきた」という指摘である。もちろんそれは『エウデモス倫理学』においてなのだろうが、『ニコマコス倫理学』においても「神の直観との連関などほとんど気づかしめないのであるが、原倫理学に着目すればこの関係は明白にたぐり出せる」としている点である。
和辻の推論通りなら、アリストテレスの友愛の理論は「人倫の独立の価値」としてのそれと、その背景にある「神の直観」から導き出された友愛との、二重構造になっているはずである。
これから繁忙期なので、しばらく中断。

竜頭蛇尾の尾

ちょっと尻切れトンボなので加筆します。
アリストテレスのフロネーシスに関心を持ったのは、去年くらいから和辻を再読してみて、そういえばアリストテレスについては学生のときにちょっとかじっただけだったなあという反省が一点。もう一つは、学生時代に親しんだ中村雄二郎をあらためて読み返して、そこに共通感覚とセットでフロネーシスが出てきたこと。
共通感覚と言えばアーレントの判断力論でも出てきます。カントに関連してドゥルーズも論じています。これをつつきまわせばいろいろなトピックスが出てくるでしょう。
また、ハイデガーの「ナトルプ報告」を読んだのもよい勉強になりました。初期ハイデガーアリストテレス解釈はガダマー、アーレント、そして触れませんでしたが、ハーバーマスらの議論にもなにがしかの連絡があるものだと思います。ずいぶん前に「実践哲学の復権」というキャッチコピーでドイツ語圏の現代哲学が紹介されていたような気もするのですが、それにもなにか関係があったのかもしれません。
これも触れませんでしたが、マッキンタイア『美徳なき時代』でもフロネーシスが取り上げられていました。うろおぼえですが、アーレントの議論は共同体主義に親和的ではないかという議論もあったような気がします。
そんなわけで、これは面白そうだなあ、後学のために読んでおこうと思ったのです。
あと数年もすれば、親の介護やら何やらで本など読んでいられなくなるでしょう。その前に少しでも積ん読状態のものを消化しておきたいものです。