複数性について(写経)

複数性についてのアーレントの覚書を写経する。
ハンナ・アーレント思索日記〈1〉1950-1953 叢書・ウニベルシタス法政大学出版局、p56-57より。

複数性。1.紛れもない複数性がなければ政治は存在せず、根本的な異質性がなければ法律は不要である−−人々や民族の複数性と根本的異質性という事実と、2.二つの性があることに見られる「愛には愛が要る」、すなわち人間はひとりでは生きられないという事実とは、厳密に区別しなければならない。後の場合には、人は相手を求める(または必要とする)(そして、そこから三番目の人が現れる)。多数性の場合は、逆に、人はいつもすでに期待し、頼りにしているのは−−相手ではなくて−−他者たちなのである。愛の場合には人は自分にふさわしいものを求めるが、多数性の場合に人が期待しているのは「適合しないもの」、異質なもの、異なるものである。二つの性があることから生まれる、あるいは少なくともそこに示されている必要ということと、多数性に含まれている相互依存とは根本的に異なる。
(西洋の伝統において)いつも家族が人間の政治的な共同体の原型として捉えられる場合、このような二つの事柄が同一視される。そこから−−政治的関係と「愛の関係」と家族関係が同時に曲解されるという−−途方もないことが起こる。
必要と相互依存の違いについて。家族では子供たちは両親を必要とし、両親は一切の見返りを期待せずにそれに応える責任がある。子供は老いた両親を世話すべきだという要求は、すでに政治的・道徳的な法則であって、家族そのものとは関係がない。政治的共同体が自分自身の特定の義務を家族に転嫁したのだ。政治的共同体ではすべてが双務的−−「相互的(mutual)」−−である。他者が私に依存し私について責任があるのと同じように、私は他者に依存し他者について責任がある。これだけが法律の「平等」であって、それは人々の間の事実上の不平等とは関係がない。法律は事実上の不平等には全く関わりがないのだ。また、各人に真実各様のものを与えることも問題ではない。各人各様というのは決めようのないものであって、−−それが人間的正義の限界であり、その元は人の心が絶対に分からないということにある。法律は双務性の表れであり、−−相互依存と相互に責任があることの表れであって、法律とはわれわれが相互に確約し合うものなのである。

感想

人は一人では生きていけない、とは、よく聞く言葉だけれども、生殖のためにはパートナーが必要という意味と、社会は異質な他者たちによってできているという意味があり、この二つを混同してはならないとアレントは言う。
相互に異質な他者同士による政治的共同体は、家族をモデルとするような共同体と混同されてはならない。
政治的共同体における責任は、親の子に対する応答関係のようなものではなく、ギブ・アンド・テイクの、一種の取引のようなものだと言うことだろうか。