『クリトン』

格言「悪法も法なり」がソクラテスの言葉ではなかった件に関して、文字通りそう言ったのではなくても、そういう趣旨のことを言ったということがあったのか気になって、ひさしぶりにプラトン対話編(これに関連するのは『クリトン』しか思い当たらない)を引っ張り出した。
死刑が確定したソクラテスに脱獄をすすめに来た旧友クリトンとの次の問答が問題となる箇所だと思われる。新潮文庫の田中美知太郎訳から引く。

ソークラテース  さて僕たちの主張は、どんなにしても、故意に不正を行なってはならないということだろうか、それとも、不正を行なっていい場合と、いけない場合とがあるということだろうか、どっちだね。
(中略)
とにかく不正というものは、不正を行う者には、どんなにしても、まさに害悪であり、醜悪であるということになるのではないか。どうだね、僕たちの主張は、これかね、それとも、これではないかね。
クリトーン  うん、僕たちの主張はそういうことになる。
ソークラテース  それなら、どんなにしても、不正を行なってはならないということになる。
クリトーン  無論、そうだ。
ソークラテース  そうすると、たとい不正な目にあったとしても、不正の仕返しをするということは、世の多数の者が考えるようには、許されないことになる。とにかく、どんなにしても、不正を行なってはならないのだとするとね。
クリトーン  それは明らかにそうだ。
ソークラテース  ところで、どうだね。害悪を加えるということは、クリトーン、なすべきことなのかね、それとも、なすべからざることなのかね。
クリトーン  無論、なすべからざることだと思うね、ソークラテース。
ソークラテース  で、どうかね。害悪を受けたら、仕返しに害悪を与えるというのは、世の多数の者が主張しているように、正しいことなのだろうか、それとも、正しくないことだろうか。
クリトーン  それは決して正しいことではない。
ソークラテース  つまり、人に害悪を与えるということは、不正な目にあわすということと、ちっとも違ってはいないからだ。
クリトーン  君の言うことは本当だ。
ソークラテース  そうすると、仕返しに不正をしかけるとか、害悪を及ぼすとかいうことは、世の何びとに対しても行なってはならないのであって、たといどんな目に、彼らからあわされたとしても、それは許されないのだということになる。
(中略)
ソークラテース  では、あらためて、その次の話をしようか。いや、それよりも、君に質問しよう。どうだね、いま人が誰かに何かの同意を与えたとするならば、それが正しいことがらである限り、それをなすべきではないか。それとも、約束を破ってもかまわないだろうか。
クリトーン  いや、それを実行しなければならない。
ソークラテース  では、そこから、よく注意して見てくれたまえ。いま僕たちが、国民の承諾を得ないで、ここから出て行くとするならば、それは何ものかに、僕たちが害悪を与えていることにならないだろうか。しかもいちばんそれを与えてはならないものに、それを与えていることにならないだろうか。どうだね、それとも、ちがうだろうか。また僕たちは、僕たちが同意を与えた正しいことに対して、忠実に約束を守っていることになるのだろうか。それとも、そうではないだろうか。
クリトーン  いや、ソークラテース、君のその問には、僕は答ができないよ。思い当たるものがないんでね。

もちろん、クリトーンの「思い当たるものがない」という発言は、答えに窮してのおとぼけであろう。
この後、ソークラテースは、擬人化した国法を相手に想定問答を自演して、国法をして次のように語らせる。

(前略)
まあ、いずれにしても、いまこの世からお前が去って行くとすれば、お前はすっかり不正な目にあわされた人間として、去って行くことになるけれども、しかしそれはわたしたち国法による被害ではなくて、世間の人間から加えられた不正に止まるのだ。ところが、もしお前が、自分でわたしたちに対して行なった同意や約束を踏みにじり、何よりも害を加えてはならないはずの、自分自身や自分の友だち、自分の祖国とわたしたち国法に対して害を加えるという、そういうみにくい仕方で、不正や加害の仕返しをして、ここから逃げて行くとするならば、生きている限りのお前に対しては、わたしたちの怒りがつづくだろうし、かの世へ行っても、わたしたちの兄弟たる、あの世の法が、お前は自分の勝手で、わたしたちを無にしようと企てたと知っているから、好意的にお前を受け容れてはくれないだろう。いずれにしても、わたしたちよりもクリトーンが、お前を説得して、彼の言うことを、お前にさせるようなことがあってはなるまい」

引用文中で「自分でわたしたちに対して行なった同意や約束」とあるのはクリトンとのあいだのことではなく、この前の想定問答で、法の遵守義務について、この国の法制が気に入らなければ他国に移り住むこともできたのにそれをしなかった以上、法に従うという暗黙の契約をなしたことになる、と説かれていることを踏まえている(アテナイギリシア都市国家だから他の都市国家に移住するという選択肢はある)。
また、ソクラテスはこれに先立つ裁判で有罪判決を受けているが、罰則については原告が主張する死刑以外にも「その希望があったならば国外追放の罪科を申出ることができた」、それなのにソクラテスはそれを望まなかった。次のように大見得を切って挑発したのである。

だから、わたしが正義に従って、至当の評価で自分の受けなければならぬものを申出るべきだとするならば、これがわたしの申出る科料だ。すなわち市の迎賓館における食事。(『ソークラテースの弁明』)

ソクラテスは『弁明』においてこうも言っている。

かくて、わたしの確信では、何びとにも不正を加えることはしていないのだから、自分自身について、自分のほうから、何かの害悪を受けるのが当然であると言って、自分自身のために、何かそういう科料を申出て、自分自身に不正を加えようとすることは、わたしの思いもよらぬことなのだ。

減刑を申し出るということは、自分の有罪を認めることであり、それはソクラテスの納得できないことだったろう(とはいえ、自分が払える程度の罰金だったらば払うとも言い添えてはいるのだけれども)。
以上から、ソクラテスが自らを死刑に処することになるアテナイの法システムを悪法とは考えていないことは明らかだ。自らが有罪とされたことについては不正だと思っているけれども、その不正は「国法による被害ではなくて、世間の人間から加えられた不正に止まる」。「世間の人間」による不正に対して「国法に対して害を加えるという、そういうみにくい仕方で、不正や加害の仕返し」をすることは「世の何びとに対しても行なってはならないのであって、たといどんな目に、彼らからあわされたとしても、それは許されない」。それと同時に、自分が不正を行うということは「自分自身に不正を加えようとすること」、すなわち自分に害悪を与えることになる、とソクラテスは考えていたはずである。
釈然としないところもあるが、ソクラテスがこのように考えていたとすると、彼が死刑を受け容れたのは、順法精神というよりも、彼なりの正義の貫徹に重点が置かれていたような印象を受ける。
さて、こうしてみると、「悪法も法なり」という言葉自体はおろか、この格言の含意する、杓子定規な順法精神、あるいは法律で決まっているのだから仕方がないというような投げやりな態度のいずれも、ソクラテスの主張には含まれていない。格言「悪法も法なり」は、ソクラテスの思想を反映した言葉ではない。

感想

それでは、国法が悪法である場合についてソクラテスはどう考えていたのか。
『クリトン』の想定問答のなかで、国法は法令の遵守義務を説きながら次のようにいう。

戦場においても、法廷においても、どんな場所においても、国家と祖国が命ずることは、何でもしなければならないのだ。そうでなければ、この場合の正しさが、当然それを許すような仕方で、説得しなければならないのだ。

また、「すなわちわたしたちは、何でもわたしたちの命ずるところは、これをなせと、乱暴な仕方で指令しているのではなくて、これを提示して、わたしたちを説得するか、そうでなければ、これをなせと、選択の余地をのこして言っている」とも言わせている。
「悪法は説得してこれを変えよ」というのが、悪法に対するソクラテスの考えであろう。
実際、『弁明』においてソクラテスは、死刑というような重大案件をわずか一日で審判するアテナイの法制を遺憾としているし、もう少し時間があれば裁判官を説得できたのに、と残念がってもいる。
ただ、ソクラテスの言うように説得という手段のみが許されるのであれば、死刑は廃止されるべきではなかったか。死刑という決定は、裁かれる側としては執行後に再審を求めることができず、裁く側としても執行後に再考する余地のない決定である。
説得や対話というものは、ソクラテスの対話がそうであったように、何度も蒸し返されたり、別の立場からの意見が表明されたりすることで参加者の理解が深まるところに意義がある。死刑という決断は、ある発言を一方的に断ち切ることになる。その決定がなされた以上、もはや説得や対話は意味をもたない。死刑という判断は、もうあなたの言い分には耳を貸しません、という意思表示でもある。
ましてやソクラテスが告発されたのは、その言論活動の故であった。ソクラテスとしては、この断絶は承認すべきではなかったのではないか。それとも彼にはもはや言うべきことがなかったのであろうか。
先哲には畏れ多いことながら、そんなふうに感じた。
もっとも、死ねば終わりと思っている私だからそう感じるのであって、ソクラテスは肉体の死後も魂は永続すると信じていたようだから(『パイドン』)、死刑を受け容れたことをもって、発言をやめるというようには感じていなかったかもしれないが。
唐突だけれども、「神的暴力は犠牲を受けいれる」というベンヤミンの言葉を思い出した。
ソクラテスの挑戦は神的暴力の一種かもしれない。