アリストテレスの知慮3あるいはペリクレス

古代アテネの政治家ペリクレスについて私は詳しいことは知らない。それでいて、アリストテレスの云う知慮とは、知慮ある人として挙げられたペリクレスの政治活動をモデルとしたのであろうと推測した。まことに浅慮で、軽率の極みである。なぜなら、ペリクレスがどういう政治家であったかを知らなければ、自らの推測が適当かどうか判断できないからである。もちろん、アリストテレス自身が知慮ある人の例としてペリクレスの名をあげた以上、アリストテレスにとってはペリクレスは知慮という徳を発揮した人物であったに違いはないが、それだけであって具体的には何もわからない。アリストテレスと同時代のギリシア人なら「ああペリクレスみたいな人なら、なるほど知慮のある人だろう」と納得もしただろうけれども、ペリクレスを知らなければ「例えばペリクレスのような」と言われても何もわからない。
具体例によって理解しようとするなら、その具体例を知らなければならない。

プラトンペリクレス

ペリクレスの没年は紀元前429年だそうだから、前384or3年の生まれとされるアリストテレスが直接その活躍を目にしたはずはない。おそらくこの政治家の評判については師プラトンからの又聞きであったろう。そしてそのプラトンにしても前427年生まれだから、ペリクレスについて直接知っていたわけではなく、師ソクラテスから聞いたのだろうことは容易に想像される。
ソクラテスの直説であるかプラトンの脚色であるかどうかはわからないが、プラトンの対話編『ゴルギアス』には、ソクラテスペリクレスの演説を直に聞いたことがあったと言っている箇所がある。その『ゴルギアス』では、ペリクレスの晩年がよくなかったことを挙げて、彼の弁論術もアテナイの市民をよりよいものにするほどではなかったと批判している。
一方、『パイドロス (岩波文庫)』ではペリクレスは肯定的に語られている。

ソクラテス おそらくは、よき友よ、かのペリクレスが、弁論術にかけて何びともおよばぬ完成の域に達したのは、少しも不思議なことではないのだ。
パイドロス なぜですか。
ソクラテス およそ技術のなかでも重要であるほどのものは、ものの本性についての、空論にちかいまでの詳細な論議と、現実遊離と言われるくらいの高遠な思索とを、とくに必要とする。そういう技術の特色をなすあの高邁な精神と、あらゆる面において目的をなしとげずにはおかぬ力との源泉は、なにかそういったところにあるように思われるからだ。ペリクレスもまた、そのすぐれた天分に加えて、この精神、この力をわがものとしたのであった。思うにそれは、彼が、同じこの精神と力量の所有者であるアナクサゴラスに出会ったおかげであろう。すなわち、彼はこの人から高遠な思索をじゅうぶんに吹きこまれ、アナクサゴラスが論じるところ多かった知性(ヌゥス)と無知との本体をつきとめた上で、そこから言論の技術にあてはまるものを引き出して、この技術に役立てたのだ。

このように『パイドロス』でのペリクレスは、弁論の達人で「高邁な精神と、あらゆる面において目的をなしとげずなはおかぬ力」の持ち主とされている。
いずれにしても、ペリクレスの名は弁論術とセットで引き合いに出されている。
プラトンアリストテレスに教えたのは、これよりもはるかに多くのことがらであったろうから、これがすべてというわけではないだろうが、どんなに少なくともアリストテレスプラトンが書き残したものにある程度のことは知っていたはずである。

アリストテレスペリクレス

弁論術で知られた政治家のことだがら『弁論術』に詳しく出ているかというとそうでもない。ペリクレスの息子は父親に比べて出来が悪かったらしいことがわかった程度だった。
アリストテレスの記したペリクレスの政治家としての事績は『政治学』と『アテナイ人の国制』にある。
政治学』には「エピアルテスとペリクレスはアレイオス・パゴスの評議員会の力を切取り、さらにペリクレスは裁判法廷に手当を支払う制を設け、また民衆指導者たちはそれぞれ実にこのような仕方で人民の力を成長させながら今日の民主制に導いてきた」とある。ペリクレスは民衆指導者の一人であり、民衆の国政への参加に対して経済的に補償することで民主制を拡大した、ということのようだ。
アテナイ人の国制 (岩波文庫 青 604-7)』にも同様のことが記されている。

この後ペリクレスが民衆の指導者となって、若年にもかかわらずキモンの将軍としての執務報告を糾弾してはじめて名声を揚げ、国制はここに一層民主的となるに至った。何となれば彼はまたアレイオス・パゴス会員からその特権の或るものを奪い、特に国家を海軍力の方向に向かわしめ、その結果大衆は自信を得て全政権をますます自分の手に収めるに至ったのであるから。

先輩政治家キモンを失脚させて頭角を現したわけだ。『パイドロス』で称賛された弁論術はこういうときに発揮されたのだろう。
陪審員に給料を出すことにしたことについては、政敵キモンに比して財産の点で劣っていたペリクレスは民衆の支持を得るためにそうしたが、それは衆愚政治のきっかけになったというようなことが書いてある(「その結果、常にしかるべき人々よりもむしろ凡俗な人間がこれに選ばれようと熱心に籤を抽くので悪くなったと非難する人もいる」)。
アテナイ人の国制』にはこの他に、「ペリクレスの提案により市民たる両親から生まれたものでなければ市民権に与り得ぬと決議した」ともある。参政権を旧来の支配層から一般民衆へ拡大しはしたが、一方で血統主義に立ってニューカマーを閉め出したというわけだ。
意外なことにアリストテレスはこの程度しかペリクレスについては語っていない。全集を片端からひっくり返せばもう少し何かあるかも知れないが、プルタルコス英雄伝で参照されているものもこの程度である。それにしても、『ニコマコス倫理学』で「知慮」という徳の見本のように言われていた人物についてにしては素っ気ないし、評点もいささか辛目のような気がする。
アテナイ人の国制』の訳者・村川堅太郎氏もそう感じたようで、「解説」で次のように言っている。

トゥキュディディスが、上述したようにこの史家自身の晩年の理想の国制はペリクレスの推進したものではなかったらしいにもかかわらず、ペリクレスの人格と識見、また政治指導力を極めて高く評価するという公正な態度をとっていたことと比較した場合、やはり狭量、偏見のそしりを免れぬであろう。

万学の祖に「狭量、偏見のそしりを免れぬ」と啖呵を切っているのは清々しい。