デリダと歴史修正主義についての補足

第一回ツネオ杯http://d.hatena.ne.jp/toled/20081128/p1について、ここ数日、お見苦しいところをお見せしました。
gorgeさんから晩ご飯の記録の方にいただいたコメントに御返事しているうちに、また、takashiさんからのお問い合わせにお応えしているうちに、長屋の花見を楽しんだのだからいいかという気持ちになってきました。
先日の記事http://d.hatena.ne.jp/t-hirosaka/20081207/1228614658、いくらなんでも尻切れトンボなので、言わずもがなのことを少し補足します。
デリダが「真理の配達人」で「鍋の論理」と揶揄しているのは、『声と現象』では「現前の形而上学」と呼ばれたもの、「自分の−声を−聴く」という構造のことでしょう。
ここではラカン精神分析がそれに当たるかどうか、また、一般的見地から「現前の形而上学」が批判されるべきものかどうかもさておくとします。
ともあれ、デリダにとっては「現前の形而上学」(音声中心主義、ロゴス中心主義、ファロス中心主義等とも言い換えられるそれ)は、彼の批判の対象です。この点は初期と中期で一貫しています。
これは、「鍋の論理」を参考にすれば、何かを論じるに当たって、自らは問い直さずに、自分の実感を自明の理として、それを参照して考える、そういう態度のことだろうと思います。
こうしてみると、自分の思い込みを歴史に投影したり、自分の仮説に都合のよい史料だけを参照したり(逆に都合の悪い史料は参照しなかったり)するような議論は、それこそまさにデリダの批判対象の、非常に拙劣なレベルでの粗悪な典型例と見なされます。
したがって、toledさんの懸賞の対象となるような意味での「歴史修正主義」を、デリダが肯定したり容認したりしたことはないだろう、というのが私の結論です。
記事にしたものの他『有限責任会社』と『精神について』にはあらためて目を通し、そこでは別の局面での問題が提起されていることに気づきましたが、「歴史修正主義」についての私の上の判断に変更はありません。
またド・マン論争(まとまった翻訳がないので二次資料しか参照していませんが)、これには「反ユダヤ主義」という言葉が安易なレッテルとして使われていることへの問題提起もあったと思いますので興味深いものがありますが、ホロコースト否定論を容認しているわけではないことは歴然としていますので、ここでは取り上げる必要を感じませんでした。
なお、歴史修正主義についてはD_Amonさんが的確な記事を書かれていて、私もそれに同感です。http://d.hatena.ne.jp/D_Amon/20081209/p1
上の記事で、D_Amonさんは歴史修正主義批判に対する誤解について指摘されています、私にはその指摘はデリダについての誤解についても同様に言えるように思えました。
なお、D_Amonさんが次のように書いているのも同感。

実際問題、歴史修正主義に関する議論が収束し、それを批判する必要が無くなれば、私もその分の時間を別のことに使えて助かるんです。

まったくそうですよね。
最近奥方様のお弁当を拝見していないので淋しく思っていたところでした。
(最初、D_Amonさんのコメント欄に書き込んだけれども、論争的な記事のようだったので、こちらに移しました。)
ちょっと断線しましたが、以上が私の結論です。たとえ、現金化できようができまいが、懸賞への挑戦は打ち切ります。
id:toledさん、よいおさらいの機会を与えてくださってありがとうございました。