兵馬俑についての珍仮説

一読して、それは違うだろう、と感じたのが次の朝日新聞の記事。
兵馬俑 定説巡り論争「始皇帝と無関係」研究者提起
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200812230094.html
長いけれども全文を引用する。

中国を代表する歴史遺産、兵馬俑(へいばよう)坑が来年、発見から35周年を迎える。秦の始皇帝の副葬品というのが定説だが、「別の人物のものだ」とする研究者の主張が注目され、論争が広がっている。(西安〈中国陝西省〉=西村大輔)

■出土武器「時代遅れ」

 定説に異議を唱えるのは江蘇省政府の元職員で、独自に始皇帝陵や兵馬俑を研究する建築学者、陳景元氏(70)。定説に65の疑問を提起した本を香港で出版し、中国中央テレビなどが取り上げて話題となった。
 陳氏はまず、始皇帝陵の東約1.5キロに位置する兵馬俑坑は、副葬坑としては遠すぎると指摘する。また、出土した武器のほとんどが青銅製。中国では紀元前5〜3世紀の戦国時代から鉄の兵器が出回ったのに、紀元前3世紀後半の人だった始皇帝の兵士たちが、もっぱら時代遅れの武器を使ったとは考えにくい、と主張する。
 始皇帝は貨幣や度量衡などとともに、馬車の車軸の長さを約1.4メートルに統一したが、兵馬俑坑の馬車の車軸はばらばら。さらに、始皇帝は正装や旗などはすべて黒を基調と定めたが、兵馬俑が極彩色に塗られているのは史実に合わないと言う。
 「兵馬俑始皇帝の副葬品説」の最大の証拠とされるのは、始皇帝時代の宰相の名で年代を記した矛(ほこ)が現地で発見されたことだ。矛には「呂不韋○年」と刻んである。だが陳氏によると、こうした矛は数点しか見つかっていないうえ、兵馬俑が立つ地面と矛の間には数十センチ〜約2メートルの泥層が積もっていた。
 完成後の兵馬俑が年月を経る間に何度も洪水に見舞われ、後代の侵入者が矛を置き去った――。陳氏はそんな可能性を踏まえ、「始皇帝副葬品説」とは別の仮説を立てる。

 彼が注目するのは、始皇帝の5代前の恵文王の妻で、後に幼い息子が王位に就いた際には摂政として権勢を振るった宣太后だ。陳氏は、兵馬俑の近くの未発掘の墳墓が、古文書に記述のある宣太后の陵墓なのではないか、と主張する。
 仮説の補強材料として、陳氏はこんなことを挙げる。兵馬俑のうち、大半の武士俑は、頭のまげが右側にずれている。この習慣は秦では珍しいが、宣太后の出身国・楚の風俗だという。度重なる戦争や大規模工事で始皇帝時代の財政は切迫したが、宣太后時代は太平で、立派な埋葬ができた、とも推測する。

 これに対し、兵馬俑坑で30年間発掘を指揮した考古学者、袁仲一氏(76)は「こんな大規模な副葬坑は始皇帝以外に造れない」と反論する。
 袁氏によると、始皇帝陵の周辺で見つかった副葬坑の出土品と、兵馬俑の造形の特徴は酷似し、坑ごとの出土品に刻まれた文字にも共通点がある。陳氏が宣太后のものだと指摘する墳墓は、規模が小さく兵馬俑とは不釣り合いの上、兵馬俑坑から女性らしい副葬品が見あたらないのも不自然だと主張する。袁氏は「始皇帝のものであることは学界の共通認識。調査の積み重ねで証拠もそろっている」と話す。
 陳氏が定説を覆せるかどうかはわからないが、一定の評価をする専門家もいる。復旦大学の陳淳教授(考古学)は「陳景元氏が指摘した車軸の長さや武士俑の右寄りのまげなどの問題は再検討に値する。秦代研究の根拠とされる『史記』は、秦代から見てかなり後世に書かれており、懐疑的な姿勢で利用する必要がある」と話している。

以下、この記事に対する疑問を述べる。

史記』の史料的価値

この記事は兵馬俑は秦の始皇帝の副葬品という定説に疑問を呈した陳景元氏の仮説を取り上げている。そして袁仲一氏による反論も短く紹介しながらも、最後には、陳景元氏の仮説に「一定の評価をする専門家」として、復旦大学・陳淳教授を登場させ、そのコメントを紹介して締めくくっている。
陳淳教授のコメント「陳景元氏が指摘した車軸の長さや武士俑の右寄りのまげなどの問題は再検討に値する。秦代研究の根拠とされる『史記』は、秦代から見てかなり後世に書かれており、懐疑的な姿勢で利用する必要がある」
ここで陳淳教授は、陳景元氏の仮説に一定の評価をしながら、司馬遷の『史記』について「秦代から見てかなり後世に書かれて」いるとして、その史料的価値に疑問を投げかけている。
しかし、司馬遷が『史記』を編纂するにあたって、漢が引き継いだ秦の史書や行政記録文書などの史料を参照していたこと、また『史記』は司馬遷一代でなったのではなく、その父・司馬談の代から史料収集が始められていたこと、司馬談の代に収集されたと思われる資料には秦時代を知る人の懐古談や証言なども含まれており、「秦代から見てかなり後世」とはとても言えないことなどが無視されている。
さらに、陳淳教授が「再検討に値する」と評価した陳景元氏の指摘のうち「車軸の長さの問題」やそのほか「始皇帝は正装や旗などはすべて黒を基調と定めた」ことなど、陳景元氏の疑問の根拠は『史記』の記述に基づいている。
つまり、陳淳教授の「秦代研究の根拠とされる『史記』は、秦代から見てかなり後世に書かれており、懐疑的な姿勢で利用する必要がある」というコメントは、妥当性を欠く上に、肝心の陳景元氏の仮説への援護にすらなっていない。
これがこの記事への疑問の第一点。

陳景元氏の仮説

陳景元氏の唱える定説への異議には次の点が含まれている。
始皇帝は貨幣や度量衡などとともに、馬車の車軸の長さを約1.4メートルに統一したが、兵馬俑坑の馬車の車軸はばらばら。さらに、始皇帝は正装や旗などはすべて黒を基調と定めたが、兵馬俑が極彩色に塗られているのは史実に合わないと言う。」
これは『史記』の記述を根拠とする異議である。しかし、ここには始皇帝陵の建設が秦による天下統一前から始まっていたことが見落とされている。馬車の車軸の規格の統一、正装や旗などはすべて黒を基調と定めたことなどは、『史記』の記述によるが、いずれも天下統一後のことである。兵馬俑坑が天下統一前の建設であれば、陳景元氏の挙げる点に特段の不審はない。
また「度重なる戦争や大規模工事で始皇帝時代の財政は切迫したが、宣太后時代は太平で、立派な埋葬ができた」という推測についても同様である。「度重なる戦争」や万里の長城などの「大規模工事」による財政難は天下統一後であって、始皇帝陵建設開始当時の秦は、数代にわたる富国強兵策が実って財政的には豊かであったと推測される。
また「宣太后時代は太平」だったというのも、まさに「権勢を振るった」宣太后が、外戚を重用して秦宮廷の内紛を招いたことを無視している。宣太后一派は昭王の宰相となった応候により追放されている。
さらに、副葬品の武器について「中国では紀元前5〜3世紀の戦国時代から鉄の兵器が出回ったのに」「出土した武器のほとんどが青銅製」だったというのも、鉄器は実用のために使い、青銅器は埋葬のような儀礼のために使ったと考えた方が自然ではないか。

結論

陳景元氏の仮説は、『史記』に依拠しながら、『史記』の記述を読み違えているか、自説に都合のよい解釈をしなければ出てこない推測によっており、まともに取り上げるに値するかどうか疑問。また、その仮説に「一定の評価」を与えた陳淳教授のコメントも、陳景元氏の依拠する『史記』に懐疑的である点で、陳景元氏の仮説とすら矛盾する。この記事の構成のように、両者をセットにすると、何でもあり、になってしまう。
要するにこの記事の全体が、まことにトンチンカンなのである。
どうしてこういうことになったのか、よもや朝日の記者は『史記』を読んでいないのだろうか、またこの記事をチェックする人が社内にいなかったのだろうか。大新聞社は取材記者の他に編集、校閲など二重三重のチェック機関があると聞いていたのだが、みな居眠りでもしていたのだろうか。
まことに不可解。