レヴィナス「エコノミー的な思考」

高熱でうんうんうなっていたら、このあいだ書いたパイドロスの記事にトラックバックが飛んできた。
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20120208/1328728552
うわあ、ジャンケレヴィッチだあ、難しいなあ。
実は、僕は『パイドロス』を読みながらレヴィナスを連想していた。ちょっと近いかも?
レヴィナスは『全体性と無限 (上) (岩波文庫)』でプラトンパイドロス』を引きながら次のように言っている。

そればかりではない。プラトンもしばしばまた、そのことを証言しているのである。「正気の」ひとがいとなむ思考に対してプラトンは、神から到来する狂気の価値、「翼をもった思考」の価値を肯定する。狂気はそれでも、ここで非合理主義的な意味をもつわけではない。狂気とは「慣習や規則と手を切った神的なもの」であるにすぎない。第四の種類の狂気は理性それ自体なのであって、イデアへと身を高めてゆく、最上位の思考にほかならないのである。神にとり憑かれていること、神がかりは、非合理的なものではない。それは孤独な思考(あとで「エコノミー的」な思考と呼ぶことになるだろう)、あるいは内部的な思考の終わりを告げるものであり、新しいものと叡智的なものをめぐる真の経験のはじまりである。それこそがすでに<渇望>なのである。(上巻、p77)

引用文中「第四の種類の狂気」には訳注がついていて『パイドロス』が引かれている。書き写すのは面倒なので勝手にまとめると、要するに、ソクラテスプラトン)の言うには、神がかりによる狂気は、四柱の神によって四種類に分類される。
一、アポロンによる予言の霊感
二、ディオニュソスによる秘儀の霊感
三、ミューズによる詩的霊感
四、アフロディテとエロスによる恋の予感(語感として「恋」に「霊感」がしっくりこないので勝手に変えた)
このうち、四の恋の狂気がもっとも善きものだというのがソクラテスの主張である。
「神にとり憑かれていること、神がかりは、非合理的なものではない」ということを理解するためには、それが「孤独な思考(あとで「エコノミー的」な思考と呼ぶことになるだろう)、あるいは内部的な思考の終わりを告げるもの」だということの意味をよく考えなければならないのだろうが、パラパラめくった範囲では、「エコノミー的な思考」という表現はレヴィナスが予告しているのにもかかわらずこのあと出てこない。どうしたものか。
また熱が出てきたので、このへんで。