アリストテレスの知慮8ハイデガーの解釈2

引き続きハイデガーアリストテレス現象学的解釈』を読んでいる。

解釈では同時に、アリストテレスがどのような方法で思慮の現象を顕在化させているかが述べられる。アリストテレスは、何々へと関わっていること(志向性)、その関わりの向かう先(志向的対象)、さらにその関わりがいかに遂行されるか、といったさまざまな現象的な観点から記述的に比較し区別する、という方法をとっている。記述は、つねにさまざまの習性を同時に挙げて、それら同士を互いに弁別するという仕方で行なわれている。この点で特に示唆に富むのは、思慮に内在する語りの具体的な遂行様態である慎重の分析である。慎重は、適切かつ本来的に目標に到達するにはいかに仕事に取りかかればよいかを、瞬間そのものから、目配り的な眼差しの内に取り込み看取する。(p72-p73)

「慎重」には「エウプーリア」というギリシア語ルビが付されている。エウプーリアは、岩波文庫では「思量の巧者」と訳されていて、その分析は第六巻第九章にある。アリストテレスの該当箇所を読み返してみて、つくづく感心するのは、ハイデガーの解釈は一見するとたいへん独創的なように見えながら(『存在と時間』第2編にこの箇所を彷彿とさせる文章がある)、アリストテレスの議論の流れにピッタリと沿っている点である。アリストテレスを読み返してから、あらためて上に引いたハイデガーの文章を読むと『ニコマコス倫理学』第六巻第九章を要約するとしたらこうするほかないだろうと思わせるくらいだ。
例えば、エウプーリアを「思慮に内在する語りの具体的な遂行様態である」とする点などは、いかにもハイデガー的、と素人目には思われたのだが、アリストテレスの文章を読んでいると、なるほど思慮するとは言葉にするならこういうことか、エウプーリアは「思慮に内在する語りの具体的な遂行様態」だというのも言い得て妙だなあと思わされてしまう。「思慮するとは言葉にするなら」と留保を付けたのは、アリストテレスがフロネーシスをある種の感覚に近いと言っているからだが。
ともあれ、ハイデガー先生のご指導にしたがって読んでみよう。

アリストテレスは、何々へと関わっていること(志向性)、その関わりの向かう先(志向的対象)、さらにその関わりがいかに遂行されるか、といったさまざまな現象的な観点から記述的に比較し区別する、という方法をとっている。記述は、つねにさまざまの習性を同時に挙げて、それら同士を互いに弁別するという仕方で行なわれている。

まさしくこの通りのことをアリストテレスは行っている。学・勘・慧敏・臆見を挙げて、その特徴を比較し、エウブーリアから区別していく。
このアリストテレスの「思慮の現象を顕在化」させていく方法は、一つの事柄を類似のものどもとの関係の中に置き、時には曖昧である輪郭をくっきりと分節化することで定義する。これは、何かについてそれを言い表す的確な言葉を探そうとしているときの意識の働きに似ているように思える。
比較によって弁別されたエウブーリア(慎重)は、ハイデガーによって次のように定義される。

慎重は、適切かつ本来的に目標に到達するにはいかに仕事に取りかかればよいかを、瞬間そのものから、目配り的な眼差しの内に取り込み看取する。

アリストテレス自身は次のように言っている。

さらに、長時間思量してうまく成就することもありうるし、またそれの速やかなこともありうる。前者の場合は、だから、やはり「思量の巧者」とまではゆかないのであって、「思量の巧者」という場合は、有用なことがらについての「ただしさ」というものが、然るべきこと・然るべき仕方・然るべき時間の諸点にわたっていることを要するのである。

こうして読んでいくと、まるでハイデガーアリストテレスによって解釈しているような気分になる。というより、ハイデガー読むためにアリストテレスを参照してしまっていることに気づく。
これはちょっとまずいんじゃないかな、なんて思ったりもする。