哲学すること

ここのところ貧乏暇なしで忙しいうえに、腹痛(味噌汁の具にしたアサリにあたった)だの風邪(しつこい)だので疲労困憊、とても哲学書など、ましてやカントなど読む気にならなかった。カントは体調のよいときでないと読む気になれないと古人も言っているので、私が特別に怠惰なのではないと思う。
半月近く長引いた風邪もようやく快方に向かい始めてきたので、久しぶりにカントを開いたが、なかなかアンチノミーの議論に頭が切り替わらない。勘が戻るまで、しばらく慣らし運転した方がよさそうな状態。
「諸君らは私から哲学をではなく、哲学することを学ぶだろう」とカント先生は講壇から言ったという逸話は有名だが、文章としてはどこにあるのか、それらしいところを探してみた。
純粋理性批判 下 (岩波文庫 青 625-5)』の次の個所がそれにあたるようだ。

ところで一切の哲学的認識の全体系が、哲学というものなのである。もし我々が、このような意味における哲学を、哲学的に思索するあらゆる試み――換言すれば、時として極めて多種多様なものを含み、また極めてうつろい易い個々の主観的哲学を判定する原型と解するならば、かかる哲学こそ客観的意味における哲学でなければならない。しかしこのような意味での哲学は、可能的な学という単なる理念にすぎないのであって、具体的には決して存在するものではない。我々は、感性という雑草に覆われている唯一の真正な小径が発見され、これまでも何度となく試みてはその度毎に失敗した模型を、人間に許され得る限り原型に等しくすることに成功するまでは、さまざまな道を経てかかる哲学に近づこうとひたすら努めるのである。
それまでは、我々は哲学というものを学習することはできない。実際――哲学はどこにあるのか、誰がそれを所有しているのか、また我々は何によってそれが哲学であることを識知するのか。我々は所詮、哲学的に思索することを学び得るだけである、――換言すれば、理性の才能を理性の一般原理に従って、現に存在している或る種の哲学的な試みについて用い得るだけである。とはいえその場合にも、かかる試みをその源泉について究明し、確証し或は否定する理性の権利は保留されているのである。(岩波文庫・下巻128、)

訳文が古いので、あるいは別の訳本によるならば印象が違ってくる可能性もあるが、内容的にみて「哲学をではなく、哲学すること」という趣旨に近いのはこの個所だろうと思う。

追記

kenkidoさんが「カントの「哲学すること」の出典箇所について」http://d.hatena.ne.jp/kenkido/20101202
で原典を挙げてくださいました。
ありがとうございました。