メルロ=ポンティ『知覚の哲学』

病院の長い待ち時間で読んだ。

知覚の哲学: ラジオ講演1948年 (ちくま学芸文庫)

知覚の哲学: ラジオ講演1948年 (ちくま学芸文庫)

メルロ=ポンティ自身によるメルロ哲学への入門としては最適と思う。
これまで同種のものとしては、『眼と精神』におさめられている「哲学をたたえて」があったが、あちらがベルクソン論を軸としながらこれから模索しようとする仕事への展望を述べているのに対して、本書はデカルト、特に『方法序説』を意識しながら、メルロ自身の初期の仕事(『行動の構造』や『知覚の現象学』)の勘所を簡潔に伝えてくれるもので、わかりやすい上に、私にとっては、あそこはそうだったのかあみたいな小さな発見もあってたいへん有益だった。
本文を上回る分量の詳細な訳注は単なる注の域を越えて、それ自体が訳者・菅野盾樹によるメルロ=ポンティ論となっている。この訳書にとってはこちらが本文といえるかもしれない。例えば「菅野盾樹著『メルロ=ポンティラジオ講演原稿精解』」と題しての出版であっても何の不思議もない。
それにしてもこうした仕事を菅野氏のような大家がなさるということ、これは私のような半可通の読者にとってはまことに有り難いことではあるけれども、ナウなヤングの感覚で挑んだものも読んでみたい。風説流れ旅な話で恐縮だが、噂では人文系の若手研究者の一部にはこうした仕事を「文献学」と呼んでバカにする風潮があるらしい、本当なら嘆かわしいことである。例えば、デリダ『『幾何学の起源』序説』のような仕事、デリダばかりあげるとデリダびいきをとがめられるかもしれないのでアリバイ的につけ足せば、ドゥルーズの初期の哲学史研究(『スピノザと表現の問題』など)、フーコー『カントの人間学』のような仕事は、フランスの学位認定制度に由来するものだとしても、それ自体独立した著作として価値のある本だと思っている。フランス人の著作ばかりあげるとフランスびいきをとがめられるかもしれないので(以下略)。本邦でも大成した哲学者は若いころに「文献学」を、ルーティン・ワークとしてではなく、ライフワークの一端として取り組んでいたような気がするのだが(例えば広松渉マルクス研究)。
閑話休題。おやじギャグにキレがないのが気になるがキレのないのがおやじギャグだと自分を納得させてそのままにしておく。
ともあれ、本書の注釈は菅野氏の解釈が反映されており、それはメルロ=ポンティ現象学におけるデカルト的契機を強調するものである。それは菅野氏の見識であり、本書の内容にも一致するから、特に異議を称えるつもりはないが、例えば以下にあげるくだりはカント的な匂いがするように私には感じられる。

整合性はひとつの理想ないし事実上到達されえない限界なのです。したがって、その世界はそれだけで完結できませんし、「正常人」は異常さを理解することに意を用いなくてはなりません。正常人も異常さを決して免れないからです。彼はうぬぼれを捨てて自己を吟味し、彼のうちにあらゆる種類の妄想、夢想、呪術的行動、理解しがたい現象を再発見するよう誘われます。それらの要素は、彼の私生活と公的生活において、そして他人との諸関係においても絶大な力を持ちつづけています。それらは彼の自然認識に対してさまざまな欠落をもたらし、そこを詩が穴埋めするのです。確かに大人で正常な文明人の思考は、子供や病者あるいは野蛮人の思考にまさっていますが、そう言えるにはある条件があります。すなわち、大人の思考を神から授かったものとみなさず、いつでも人間生活の難しさと曖昧さと誠実に戦い、人間生活の非合理的根底との接触を失わないこと、つまりは、理性が自らの世界が未完成であることを認め、理性がひたすら隠してきたもの〔つまり、理性の不完全性あるいは非理性〕をすでに克服したというふりをしない、という条件です。理性の至高の職務とは、むしろ文明と認識を議論の余地がない確実なものだとは見なさず、それに疑いをさしはさむことなのですから。(p231-p232、引用にあたり誤植と思われる個所を勝手に正した。)

これなどは、文体さえ変えればカント『視霊者の夢』にあってもおかしくはない。本書を読む前に『視霊者の夢』か(カントの)『人間学』にこういう文章があると力説されたら、難しい本など読んだはしから忘れていく私はまんまと信じこんでしまうだろう。