ドストエフスキー『悪霊』

岩波文庫の古い訳に悪戦苦闘していたドストエフスキー悪霊(下) (新潮文庫)』、後半は新潮文庫に切り替えたらあれよあれよという間に読了。訳文のせいだけではなく、後半では事件が急展開するためでもあるのだが、それにしても読みやすかった。
批評でも解釈でもない、単純素朴な感想を書き留めておく。
学生時代に読んだときは、思想のドラマとして読もうとしていたと思う。これは私だけではなくて、たいていのドストエフスキー論がそうしているのだから当然だったろう。特に私の場合は、カミュ『シーシュボスの神話』におさめられているキリーロフ論を先に読んでいたので、それを確認するような読み方だったのではないかと思う(自分自身のことでも25年も経つと推測しかできないのが何となく可笑しい)。
ところが、今回久しぶりに読み返してみて、物語の狂言廻し的な役割を勤めているステパン・ヴェルホーヴンスキー(ステパン氏)が気になった。これは意外と言うよりは、今の自分とステパン氏の年齢が近くなったからなのかなと思う。学生時代にはやはり自分と年齢の近いスタヴローギンを初めとする青年たちの言動に注目しながら読んでいたが、彼らよりもステパン氏に年齢的に近くなった今の私は、自らの思想に命をかけたり、またその思想の実践のためにはいかなる犠牲をも顧みない彼らに対していささか冷淡な気持ちを抱きながら読んでいた。
作品全体の印象も変わった。学生時代は、現在ほど政治に無関心ではなかったものの、政治青年の範疇にはとても入らなかった私だが、それでも心のどこかにドラスティックな変革への期待のようなものがあり、ピョートルたちの活動が実を結ばず悲劇に終わることは読む前から知ってはいたけれども、なお作品の中に別のファクターが介入すれば、例えばピョートルの望んだようにスタヴローギンが自らの使命に覚醒するとか、マリヤ・レビャートキナが予言的なヴィジョンを示すとかすれば、作中で戯画的に描かれている全体主義的管理社会とはことなる未来を暗示しうるような物語へと読みかえる可能性があるのではないかという期待を、シャートフが殺される直前まで抱いていたため、結末に至るやひどくがっかりした記憶がある(この記憶も今回読み返すことによって甦った)。
今回、読み返してみて、この物語は性格の悲劇として組み立てられており、他の結末のありえようもないものとして描かれていると感じた。また、そのことを残念にも思わなかった。キリーロフやシャートフの純粋さはそれなりに痛ましいものではあるけれども、ピョートルとその一派の仕業に至っては、小人閑居して不善をなすとしか思えない。
むしろ、『悪霊』とはもともとそういう物語なのであって、登場人物たちの長すぎる自分語りに惑わされなければ、つまり、思想よりも行動に着目すれば、逆に興味深い人間のドラマが描かれていると感じた。
とりあえず、読後の印象はそんな感じ。
さっ、晩ご飯を作らなければ。