中村雄二郎の『悪霊』論1

先日、ハンス・ヨナスの講演録『哲学・世紀末における回顧と展望』を読んでみたのは、グノーシス主義というものについて気になったからだった。
それというのも、こんな事情があった。私の通勤電車読書生活にとって今年いちばんのイベントは、ドストエフスキー『悪霊』を米川訳・岩波文庫江川卓訳・新潮文庫で読み比べたことだった。この大作をせっかく読んだのだから、何か感想を書き付けておきたいと思ったのだが、なにぶん複雑な構造をもつ作品のため、なにか手がかりがないと、私のような素人には素朴な感想すらまとめようもない。そこで諸家の解釈に学ぼうと、本棚で眠っていた本を何冊か読み返した。そのうちの一冊に中村雄二郎『悪の哲学ノート』があった。この本は、リクール、サルトルシオランレヴィナスボードリヤールらを自在に引きながら悪について思考する道具立てを検討する前半と、ドストエフスキーを対象に悪についての思索を深める後半とでなっているが、そのドストエフスキー論の冒頭たる第6章は「『悪霊』の世界と「黙示録」」と題された『悪霊』論である。

悪の哲学ノート

悪の哲学ノート

中村の『悪霊』論は、『悪霊』における新約聖書ヨハネ黙示録」の影響を指摘したうえで、ロレンスの「黙示録」論(『現代人は愛しうるか』)を参照して、次のようにいう。

ローレンスは、このように「黙示録」のうちに、コスモスの再発見とコスモスとの合一のきっかけを見出すのだが、それは彼が、ユダヤキリスト教的な「黙示録」の背後に異教的なコスモロジーをとらえたからであった。つまりローレンスは、「黙示録」のうちに、一方では、キリスト教のうちに紛れ込んだ悪と結びつく〈権力〉本能の称揚を見るとともに、他方では、ユダヤキリスト教以前のいきいきとした大らかな自然観・宇宙観を見たのである。
そして、このような彼の「ヨハネ黙示録」観は、ドストエフスキーの『悪霊』と「ヨハネ黙示録」の関係を考える上でも、一つの展望を与えてくれる。というのも、ドストエフスキーの場合、『悪霊』というテーマを扱うに当たって、なによりも無神論的な革命思想の恐ろしげな魅力をどうとらえ、表現するか、および、ロシアの大地に根ざす宗教心の力をどう掘り起こすか、ということが大きな課題となったが、この二つの課題は、ローレンスが「黙示録」のうちに見た二つの側面に、それぞれ対応しているからである。(中村、前掲書、p193-p194)

ローレンスの黙示録観1「キリスト教のうちに紛れ込んだ悪と結びつく〈権力〉本能の称揚」
ドストエフスキーの課題1「無神論的な革命思想の恐ろしげな魅力をどうとらえ、表現するか」
ローレンスの黙示録観2「ユダヤキリスト教以前のいきいきとした大らかな自然観・宇宙観」
ドストエフスキーの課題2「ロシアの大地に根ざす宗教心の力をどう掘り起こすか」
これが中村の問題設定である。これをどう考えるか、そこで中村はグノーシス主義を持ち出す。

では、いったい、なぜ「ヨハネ黙示録」は、これほどまでに重要な働きを持ちうるのであろうか、そのことを考える上で役に立つのが、キリスト教が次第に支配下においてきた数多の土着宗教の流れを汲む〈グノーシス主義〉である。グノーシス主義は、正統キリスト教会からは、創造神、旧約聖書、歴史的イエスを否認する異端とされ、きびしく退けられてきた。しかし、創造は天上の最高神ではなく、それから派生した劣った神によってなされたというグノーシス主義の神学的な見解は、今日、力や悪の問題を突っ込んで考える上でいい手がかりになる。(中村、前掲書、p194)

この後、中村は、シオラン由来の、悪は〈存在の過剰〉である、という見解を示すのだが、そのことについては今は先送りしておく。
中村『悪の哲学ノート』でグノーシス主義が最初に大きく取り上げられるのは、第1部第2章「悪の魅力と存在の過剰」においてである。そこで中村は、シオラン『悪しき造物主』の悪についての議論をサルトル『聖ジュネ』と対比させて読みながら、シオランの「〈神と世界の二元論的断絶〉や〈天上の最高神とそこから分出する下級の神=創造者〉というグノーシス主義的な見解は、彼の〈悪しき造物主〉という考え方の前提になっている」とグノーシス主義との共通項を強調し、「シオランの考え方を私の観点からいっそう展開するまえに、それらについても、主として、ハンス・ヨナスの『グノーシスの宗教』(一九六四年、秋山さと子・入江良平訳、一九八六年、人文書院)によって、少しく見ておこう」と、ヨナスのグノーシス論に言及する(中村、前掲書、p49)。そして、新たに「5 グノーシス主義」という節を立てる。
さわりだけ引いておく。

グノーシス主義に特徴的なのは、徹底した反・世界(宇宙)的二元論であり、その立場から、神と世界(コスモス)との、また人間と世界との関係が明確に規定される。すなわち、ここにおいて、神性は絶対的に超世界的であり、世界とはまったく本質を異にしている。神性は世界を創造せず、それを支配することもない。したがって、神性と世界とは完全に対立している。つまり、世界は暗い闇の領域であり、これは、自己充足的で、はるか彼方の神的な光の領域の対極に存在している。
世界は下位の諸権力の所産であり、それらの諸権力は真の神を知らないだけでなく、さらにはその神が知られることの邪魔をする。それに対して、救済者である神は、この世界から超越的であり、しかも、それ自体は、あらゆる被造物から隠されている。また、グノーシス派は好んで、以前の宗教の最高神を冒涜的にダイモーン的権力にまで降格させる。そして、そうすることによって味方と敵の地位を逆転させる。そのような降格の格好な対象になったのが、ユダヤ教の神であった。すなわち、ユダヤ教の神は、彼らによって、〈愛の神〉〈善なる神〉とはっきり対立するものとされ、〈妬みの神〉として位置づけられたのである。(中村、前掲書、p50-p51)

この後、シオランの議論に立ち戻る「6 悪の二重の特権」、ユンググノーシス論「7 ユンググノーシス」と続き、「8 一つの展望」でこの章は終わる。私などはそそっかしいものだから、これを読んで、また、ヨナス『グノーシスの宗教』の訳者がユング派の心理学者だったこともあって、てっきりヨナスもユングに近い宗教学者かなにかなんだろうと思っていたものだ。
そこであらためて積ん読だったヨナスの『グノーシスの宗教』を読んでみようと探したのだけれども、持っていたはずなのに、引っ越しの際にどこかにまぎれてしまったのか出てこない。近所の図書館にも行ってみたがそこにもない。しかたなく借りてきたのが、エビングハウス先生の逸話が印象的な『哲学・世紀末における回顧と展望』と『生命の哲学』である。
先に薄い『哲学・世紀末における回顧と展望』を読んでおったまげた。ヨナスはユング派どころか、フッサールハイデガーに直接の薫陶を受けたバリバリの現象学者ではないか!
我ながら無知とは恐ろしい。
そして、『生命の哲学』に収められたグノーシス論「第11章 グノーシス主義実存主義ニヒリズム」を読んで、さらにぶったまげた。
こうもたまげてばかりいては魂がいくつあっても間に合わないと少し心配になったほどだ。
何に驚いたかというのは、長くなるのでまた後で。