運動至上主義

しばらく前に読んだあるネット上の記事に「フランスの「専門家」たちは、「運動至上主義」の悪い点をあげつらうことから外にまったく出ようとしなかった」という言葉があって、それに引っかかった。その記事の主張に異論があるわけではないのでトラックバックはしない。
しかし、社会運動の盛んなフランスでの事情はいざ知らず、この日本で「「運動至上主義」の悪い点をあげつらうことから外にまったく出ようとしな」いというのは感心できないが、逆に「「運動至上主義」の悪い点をあげつらうこと」をまったくしないのもおかしな話だ。
「運動至上主義」という言葉が適切かどうかはわからないけれども、社会運動に参加することそれ自体を自己実現のツールとしているような人たちがいる。そういうタイプの人たちの存在を一概に否定しようというのではない。誰にだって趣味というものはある。
しかし、原則としては、市民運動・社会運動とは、何らかの問題を解決すべく行われるものであって、運動することそれ自体が目的ではない。
これは連帯もそうだ。必要に応じて連帯すべきだが、連帯することが自己目的化しては本末転倒になる。
私が参加した大きな社会運動は、教育基本法改正反対運動とあともう一つくらいしかないが、その少ない経験に照らしても、運動が自己目的化した人、連帯が自己目的化した人がごく少数だが存在した。彼らは優れた活動家ではあるのだが目的と手段が倒錯しているために、時には運動自体を神聖化してしまったり、逆に悪しき意味でのマキャベリストになったりする傾向が見られた。この間から読み返しているドストエフスキー『悪霊』の登場人物、ピョートル・ヴェルホーヴェンスキーは、文学者が造形したその醜悪な典型であろう。
こうしたタイプの人は、市民運動・社会運動の場面でなくても往々にして見かける。政治家という地位にあこがれて立候補する人などがこれにあたる(職業政治家の大半がそうかもしれない)。あるいは、職場でワーカホリックであったりする人や、趣味や社交のサークルで必要以上に結束を求めたりする人たちと同じタイプかもしれない。私が最近愛読しているマンガ「キングダム」の主人公「信」も今のところ戦闘・出世中毒である。
えてしてこのタイプの人たちは、運動や仕事や趣味の活動に没頭しているから、そのジャンルではたいへん有能であることが多い。そして、残念なことに彼らが有能だからこそ、勇み足で自爆するだけならともかく、そのマイナス面が顕れると周囲への悪影響も深刻なことになる。運動に参加する場合に気をつけておいた方がよいこととはそういうことだ。
ちなみに『史記』の伝えるところによれば、「キングダム」の主人公「信」のモデルになった李信将軍は、無謀な作戦行動に出て味方に大損害を与えてしまった。
諸賢におかれては、どうか真意をお汲みとりくださるようお願いする。