ハンス・ヨーナスのグノーシス論1

さて、自らに課した謹慎もそろそろとくことにして、通勤電車での読書に戻ります。
何事も勉強である、と言っても2世紀頃のキリスト教の異端思想について雑学的知識をかき集めたところで、日々の暮らしに追われる呆け中年にとって何の得にもならないでしょうが、道楽と思ってハンス・ヨーナス『生命の哲学―有機体と自由 (叢書・ウニベルシタス)』第11章「グノーシス主義実存主義ニヒリズム」を読んでいます。
なお、研幾堂さんから高度な観点からのご批評をいただきましたが、私はあまり議論が得意ではない上、思考力の衰退が著しく難解なご文章を読み解けませんので、申し訳ないけれども直接の応答はいたしかねます。ヨーナスの続きを読むことで氏への婉曲な弁明になればいいとは思っていますが、はたしてそうなりますやら自分でもおぼつかないのが本音です。高邁な氏はきっと私の無能と怠慢を許してくださるだろうと思います。
ヨーナスは当初、研究対象のグノーシス主義に対して実存主義のカテゴリーが「あたかもあつらえて作られていたかのように、ぴったりだった」のは、実存主義が「あらゆる人間的「実存」の解釈に有効である」「普遍的な鍵」であることの証明だと思っていたそうだ。しかし、「普遍的な鍵というものに対する信頼を放棄したあとで、ようやく私はなぜその鍵がその特定の事例にあれほどうまく当てはまったのかと問い始めた。私はまさに適切な鍵を適切な錠に差し込んだのではないか?」とヨーナスは自らの研究を問い直す。
なお、ここで言う「実存主義」とはハイデガー存在と時間』の現存在分析を念頭においてのことであるのはヨーナスも明言している。

こうして、一つの方法と素材の出会いとして始まった研究は、最後には、実存主義について私があることに気づくことに行き着いた。すなわち、人間の実存一般の根本構造を解明すると主張し、それゆえ方法の原理として役立ちえた実存主義は、それ自体、歴史的に生成した特定の状況における人間の実存に関する哲学である、ということである。過去に存在した類似の状況(他の点では非常に異なっているが)が類似の答えをすでに呼び起こしていたのである。だからといって、実存主義によって立てられた問いが真剣さを失うわけではないが、適切な視点が獲得されるのは、実存主義に反映している状況を知るときであって、その状況に照らせば、実存主義のいくつかの洞察の妥当性が限定されたものであることが分かるのである。(p379)

ここで、ヨーナスはたいへん興味深い指摘をしている。フッサールハイデガーの薫陶を受けたこの哲学者は、自らの方法論的視点でもあった「実存主義」(ここでは『存在と時間』)の方法について、それが歴史的に特殊なものであることを言っている。そこで、もしグノーシス主義についての「実存主義的」な読解が成功したのであれば、両者の間には類似の歴史的状況があったのだろうという仮説を立てて、以下、それを検証しようとする。

「人間の孤独」

「無限に広がる空間について私は何も知らず、その空間は私のことを知らない。私はその空間に呑み込まれ、身震いしている」というパスカル『パンセ』の言葉を取り上げて、これが後にニーチェニヒリズムと名付けた「近代的な人間の精神状況」の「側面の一つを最初に」描いたとする。パスカルを最初の実存主義者としてよいかどうか、パスカルの孤独を実存主義というなら、デカルトの懐疑もまた「方法的」という形容を逸脱する場面がある点で十分に実存主義的ではないか、あるいは『パンセ』を実存主義的に読むのは後世からの投影であってパスカル自身の意図なのかどうか、といった議論もありえようが、今はヨーナスに随って読む。ヨーナスとほぼ同時期にハイデガーに学んだはずの三木清パスカルにおける人間の研究』も参照したいところだが、手を広げすぎると収拾がつかなくなるので今はやめておこう。
さて、「考える葦」は葦である点で自然の一部だが、考えるという点で自然から逸脱し、そのゆえに孤独である。

人間はもはや自然の意味を分かちもつのではなく、かろうじてなお自然の機械論的な制約を−−自らの身体をつうじて−−分かちもつにすぎない。それと同様に、自然は人間の内的な関心を分かちもっていない。したがって、まさに人間をあらゆる自然よりも優位に置いている当のもの、人間の比類のない栄誉、すなわち精神は、もはや存在の総体のなかで人間の存在をいっそう高位に置くという結果をもたらさず、むしろ反対に、人間を残りの現実から区別する架橋不可能な裂け目を表わしている。存在全体の結びつきから疎外されることによって、まさしく人間の意識は人間を世界における異邦人とするのである。あらゆる真の反省行為はまさにその異邦性の証拠である。(p381-p382)

この文章は先に孫引きした『パンセ』の文章の解釈であるが、これに続く次の文章はヨーナス自身のニヒリズム理解を示したものに思われる。

これが人間の状態である。私自身のロゴスがその内的ロゴスと親縁性を感じることのできるようなコスモスは消え去った。人間がそこに自らの占めるべき場を見いだすような全体の秩序は消え去った。人間がそこにいるのはいまや不可解な剥き出しの偶然と思われる。(p382)

そして、「このような状況は、故郷喪失、孤立、不安といったたんなる気分以上のもの」だと言う。

人間の偶然性、人間がいまここに存在していることの偶然性は、パスカルにおいてはなお神の意志による偶然性だが、私をまさに自然のこの片隅に投げ入れたその意志は探究不可能であって、私の存在に対する「なぜ」という問いはここでは、もっとも無神論的な実存主義にのみ匹敵するほどに、解答不可能である。(p384)

ちょっと余談だが、このくだりに限らず、投げ入れられて在ること、人間の被投性を強調した文章を読むと、テレビドラマ「トリック」の主題歌だった鬼束ちひろ「月光」の歌い出しを連想してしまう。

I am God's child.
この腐敗した世界に堕とされた
How do I live on such a field?
こんなもののために生まれたんじゃない

閑話休題

実存主義の本質がある種の二元論、親和的なコスモスという理念の喪失による人間と世界の疎外関係にあるのならば、すなわち要するに、実存主義の本質が人間学的なコスモス否定論〔無世界論〕なのだとすれば、そのような条件を生みだしうるのは必ずしも近代科学だけではないことになる。どのような歴史的状況によって呼び出されたものであれ、コスモス的ニヒリズムそれ自体が、実存主義のある種の特徴的な性格が展開されうる条件を与えうることだろう。(p385)

以上、抜粋したように、ヨーナスは実存主義の特徴の一つを、人間の被投性、偶然性、世界に投げ出されて在るという自己理解と表裏一体の「親和的なコスモスという理念の喪失」に認め、これをもってグノーシス主義との比較を企てる。
ここまでは実存主義の解説書や、ことによると倫社の教科書にでも書いてありそうなことなので、長々と引用して確認するまでもないように思えなくもないが、私なりに意味のあるメモのつもりである。
ヨーナスの論旨からはここからが本題なのだが、長くなったし、そろそろ帰宅して晩ご飯をつくらないといけないので続きはまた。