今週の「キングダム」

今週は休刊。
T_Sさんが次のような疑問を呈しておられた。
http://d.hatena.ne.jp/T_S/20100429/1272469508

秦の始皇帝の統一直後、朝廷では始皇帝の諸子を遠方の各地に王として封建すべしという議論があった。
この論は丞相以下群臣のほぼ総意であったという。
廷尉李斯の異議に始皇帝が賛同したために王は置かれなかったわけだが、逆に言うと当時の秦においても皇帝の肉親を諸侯王とするという後の漢と同じ郡国制が志向されていたのだ。
そうなると、何故始皇帝は群臣の意見に逆らって諸侯王を置かなかったのかという疑問が生じる。
長安成蟜や実母の王太后、相国呂不韋といった近親の謀反や野望に悩まされたがためだろうか。

始皇帝と李斯が郡国制ではなく、皇帝が直轄統治する中央集権体制を採用したのは、韓非子の国家像を忠実に実行しようとしたからではないだろうか。教科書的でつまらないが、やはりそう思う。もっとも韓非子の国家像は、戦国七雄の勢力均衡という当時の国際状況を前提にして、七ヵ国の内では比較的小規模の韓の国情に合わせての国家構想なので、中華全土を統治することになった秦の採るべき政治制度としては無理があったようにも思う。
ところで、韓非子といえば「矛盾」の逸話が有名だ。
今さらいうまでもない話だが、韓非子の「矛盾」は、あちらを立てればこちらが立たずという事態を描く逸話なので、カントあたりまでは当てはまるけれどもヘーゲルの「矛盾」には一致しない。
すでに訳語として定着してしまったから、もうどうしようもないが、何かもっと別の言い方はできなかったのかな、と惜しまれる。