韓非子の「矛盾」4難勢編3

孫子』計篇にも「勢」について述べているところがあった。

将わが計を聴くときは、これを用うれば必ず勝つ、これを留めん。将わが計を聴かざるときは、これを用うれば必ず敗る、これを去らん。計、利としてもって聴かるれば、すなわちこれが勢をなして、もってその外を佐く。勢とは利によりて権を制するなり。

「勢とは利によりて権を制するなり」。
これは、どういう意味なんだろう? はかりかねるので宿題。
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大きく三つのパートに分かれている難勢編は、最初に慎到の「勢位は賢者を屈するに足る」という説を掲げ、次に慎到の勢論への批判を紹介する。
以下、該当箇所を中文サイトから引いておくが、私が中国語や漢文を読めるわけではないので、実際に読んでいるのは岩波文庫である。コピーしたのはあくまで漢字を拾う手間を省くためでしかない。

應慎子曰:飛龍乘雲,騰蛇遊霧,吾不以龍蛇為不託於雲霧之勢也。雖然,夫釋賢而專任勢,足以為治乎?則吾未得見也。夫有雲霧之勢,而能乘遊之者,龍蛇之材美也。今雲盛而螾弗能乘也,霧醲而螘不能遊也,夫有盛雲醲霧之勢而不能乘遊者,螾螘之材薄也。今桀、紂南面而王天下,以天子之威為之雲霧,而天下不免乎大亂者,桀、紂之材薄也。且其人以堯之勢以治天下也,其勢何以異桀之勢也,亂天下者也。

批判者は次のように言う。慎子が「飛龍乘雲,騰蛇遊霧」と言うのはその通りだ。しかしながら、龍や蛇が雲に乗り霧に遊ぶのは、龍や蛇にそれだけの才徳があるからこそであって、ミミズやアリではそうはいかない。同様に、善い統治のためには「勢」だけでは足りず、やはり統治者が優れていないといけない。桀紂が南面して王となっても、天下は乱れた。それは桀や紂が愚かで徳が薄かったからだ。慎子は、堯が勢を得て天下がよく治まったというが、その勢も桀紂の乗じた勢も同じものだろう。

夫勢者,非能必使賢者用已,而不肖者不用已也,賢者用之則天下治,不肖者用之則天下亂。人之情性,賢者寡而不肖者眾,而以威勢之利濟亂世之不肖人,則是以勢亂天下者多矣,以勢治天下者寡矣。

「勢」は道具や乗り物のようなもので、賢者でも馬鹿でも用いることが出来る。賢者が用いれば天下は治まり、馬鹿が用いると天下は乱れる。賢者より馬鹿が多いのは世の常だ。要するに、勢に頼った政治は危うい、というわけだ。

夫勢者,便治而利亂者也,故《周書》曰:“毋為虎傅翼,將飛入邑,擇人而食之。”夫乘不肖人於勢,是為虎傅翼也。桀、紂為高臺深池以盡民力,為炮烙以傷民性,桀、紂得乘四行者,南面之威為之翼也。使桀、紂為匹夫,未始行一而身在刑戮矣。勢者,養虎狼之心,而成暴亂之事者也,此天下之大患也。勢之於治亂,本末有位也,而語專言勢之足以治天下者,則其智之所至者淺矣。

要するに、馬鹿をトップに据えるととんでもないことになるからやめろ、というわけだ。

夫良馬固車,使臧獲御之則為人笑,王良御之而日取千里,車馬非異也,或至乎千里,或為人笑,則巧拙相去遠矣。今以國位為車,以勢為馬,以號令為轡,以刑罰為鞭筴,使堯、舜御之則天下治,桀、紂御之則天下亂,則賢不肖相去遠矣。夫欲追速致遠,不知任王良;欲進利除害,不知任賢能;此則不知類之患也。夫堯、舜亦治民之王良也。

批判者は勢を馬車に喩える。機能の優れた馬車を無能な御者に手綱を取らせては人の笑いものになるが、王良のような優れた御者に手綱を取らせれば千里の道も一日で走らすだろう。同じ馬車でも御者によって違いがあるように、政治も統治者の賢愚によって結果は異なる。
要するに、馬鹿をトップに据えるととんでもないことになると繰り返している。
馬車の喩えは、この批判者の「勢」観をあらわしている。それは道具のようなものであって、優れた人物が用いれば善政に、無能な人物が用いれば悪政を生む。だから、善き統治には統治者の資質が重要だというのである。
なるほど、ご説ごもっとも、と思わないでもない話なのだが、韓非子はこの批判論に矛盾がある、と言うのである。