『奥の細道』のかさね

昨日の日記に事実誤認がありました。
http://d.hatena.ne.jp/t-hirosaka/20110505/1304576024#c
いただいたコメントにお返事するなかで、「かさね」という名前は松尾芭蕉奥の細道』にも出てきますよ、という趣旨で「芭蕉奥の細道』にも「かさね」という女の子と、ちょうどこのあたりで出会って、その可愛らしさに一句、/かさねとは八重撫子の名なるべし/と詠む場面があります。」と書いたのですが、文章を確認しないで書いたので、記憶違いがありました。
該当箇所を引きます。

 那須の黒羽といふ所に知る人あれば、これより野越にかゝりて直道を行かんとす。遥に一村を見かけて行くに、雨ふり日くる。農夫の家に一夜をかりて、明くれば又野中をゆく。そこに野飼の馬あり。草刈るをのこに歎きよれば、野夫といへどもさすがに情しらぬにはあらず。如何すべきや、されども此の野は縱横にわかれて、うひゝゝしき旅人の道ふみたがへん怪しう侍れば、此の馬のとゞまる処にて馬を返し給へと貸し侍りぬ。ちひさき者ふたり、馬の跡したひて走る。一人は小姫にて名をかさねと云ふ。聞きなれぬ名のやさしかりければ、
  かさねとは八重撫子の名なるべし  曾良

まず場所が違いましたね。日光から那須の黒羽に向かう途中でした。
黒羽は現在の栃木県大田原市でした。常総市からはかなり離れています。
それから、「かさねとは八重撫子の名なるべし」の句は我ながらよく覚えていたものですが、作者は芭蕉ではなく同行した弟子の曾良でした。
また、「聞きなれぬ名のやさしかりければ、」とありますから、「かさね」という名前はあまりポピュラーなものではなかったのかも知れません。
うろ覚えで知ったかぶりをしたものだから、とんだ間違いをしました。
ここに訂正します。

追記

寛文十二年に起こった累ヶ淵伝説の元となった騒動はかなり早い時点で江戸にも伝わっただろうと思われるのですが、『死霊解脱物語聞書』刊行が元禄三年だし、うーん、本当に芭蕉曾良もしらなかったのかなあ?