「四谷怪談」を読む(二)伝説の舞台

前回は結局まえおきばかりになってしまったので、大急ぎで本論に入る。
なお、『四ッ谷雑談集』の内容については重複を避けるため説明を省くので、それについては『実録四谷怪談―現代語訳『四ッ谷雑談集』 江戸怪談を読む』をご覧いただきたい。

「江戸繁栄日記 并四ッ谷開発之事」について

『四ッ谷雑談集』は物語の舞台となる四ツ谷という町の位置、成りたちの説明「江戸繁栄日記 并四ッ谷開発之事」から始まる。ちなみに『文政町方書上』もやはり四谷の町の由来から説き起こす構成になっている。一方で、南北の歌舞伎芝居『東海道四谷怪談』(以下、「芝居」と略記)は、浅草田圃の場から始まる。
江戸幕府遊郭や芝居小屋などを江戸の町はずれである浅草に移転させた。結果として浅草は江戸最大のレジャーゾーンになったわけだから、そこで田圃というのもピンとこないが、切絵図などを見ると新吉原のまわりには人家はまばらで本当に田畑があったようだ。
広末保は、南北がその後も雑司ヶ谷、深川と江戸という都市の周辺的な場所を物語の舞台に設定していることを強調する。

四谷怪談』が抱え込んだのは、浅草を起点とした都市周辺的な空間であり、境界線のあいまいな吹き溜まりの空間であったが、これは疎外され不定形化した都市生活を、その背後から浮かびあがらせるに似つかわしい空間的構図であった。(広末『四谷怪談――悪意と笑い (岩波新書)』)

同様のことは前田愛都市空間のなかの文学 (ちくま学芸文庫)』でも指摘されており、広末はそれを律義に引用しているが、『辺界の悪所 (平凡社選書)』や『悪場所の発想』(三省堂)でかねてより都市周縁のトポスと歌舞伎的想像力の関係を論じてきた広末にとっては、それはこれまでの論の延長であったろう。学生時代の私はこうした広末の議論を山口昌男の「中心と周縁」論や宮田登の境界論と重ね合わせるようにして読んでいたが、それも間違いではないにせよ、今思えば市村弘正「都市の崩壊――江戸における経験」(『「名づけ」の精神史平凡社所収)を見逃していたのが口惜しい。市村のエッセイには広末の『四谷怪談』への直接の言及はないとはいえ、浅草や深川といった場所の「悪所性」に着目して「都市の崩壊は周縁的な場に収斂する」と指摘している。広末の周縁論も悪場所のうちに崩壊の契機を見出すものだったのだ(だからこそ、「芝居」のお岩の変貌を顔面の崩壊としてとらえたのだ)。広末も市村も文政八年初演の『東海道四谷怪談』のうちに、幕藩体制崩壊の予感を読みとろうとしていたのである。
『四ッ谷雑談集』の舞台は言うまでもなく四谷だ。四谷もまた周縁的場所である。現代の東京都新宿区四谷には町外れという印象はないが、江戸時代初期の四谷は、江戸の町の急激な人口増加のため新たに開発された郊外の新興住宅地だった。四谷の大木戸から先はもはや江戸ではなく、甲州街道の最初の宿場町・新宿であった。四谷、それも現在の三丁目四丁目あたりは、町外れの境界に接する場所だった。これに着目するなら『東海道四谷怪談』と『四ッ谷雑談集』はともに周縁的な場所を物語の舞台にしているという点で似ていると言える。
一方で「芝居」と『雑談』には相違点もある。江戸時代後期に作られた『東海道四谷怪談』には、広末や市村が崩壊の予感を読みとったような頽廃的なムードが漂うが、『雑談』の成立年代は享保十二年頃で、江戸という都市が右肩上がりの急成長を遂げた時期の記憶を持っていたはずだからだ。天下を取った徳川家の直参旗本や御家人たちが、新しい都市・江戸を肩で風を切って歩いていたころの記憶である。
現代の私たちが江戸の町を想像しようとすると、どうしても古い木造建築が立ち並ぶ街並みを思い描いてしまうが、江戸時代の人にとっての江戸の町は古い街ではない。そもそも、しばしば大火に見舞われた江戸には古い建物はそう多くはなかった。そして、四谷はそのなかでも新しい町だった。『雑談』は語る。「就中御城より西之方糀町の末に至ては草村計にて…(中略)…草村の中に人家四つならではなかりしに依て其所を四つ屋と云り」。人家が四軒しかなかったから四つ屋と呼んだという地名の由来が本当かどうかはどうでもよい。『雑談』が語ろうとしているのは、四谷は人家のまれな草っぱらだったということである。この草っぱらを開拓して作ったニュータウンが四谷だった。「四谷怪談」という伝説は、こうした場所を舞台とした物語なのである。

なぜ右馬殿横町から語るのか

『四ッ谷雑談集』は四谷の位置、地名の由来を語ったあと、なぜか物語の舞台である四谷左門町について語る前に、左門町の隣町である右馬殿横町について語りはじめる。ここには旗本の辻右馬という人の屋敷があったが、この人は乱暴者であった、辻家は右馬の孫の代に「祖父の積悪」の報いか絶家した、右馬の悪名が高かったためその屋敷のあったあたりは右馬殿横町と呼ばれたという伝承を記している。
辻右馬は、三代将軍家光の頃の人らしい。辻斬りのようなことをやって罰せられたという伝承もある(『実録四谷怪談』p20参照)。この右馬殿横町の町名の由来、辻右馬に関する記事が史実かどうかはここでは問題ではない。『雑談』の語り手が、左門町の由来を語る前に右馬殿横町の伝承を語ったのはなぜなのかということである。
右馬殿横町は左門町の合わせ鏡のようなものとしてイメージされたのではないか。『雑談』は「大木戸より東へ三丁程行、右の方に辻右馬[御書院小普請/高七百五十石]と云人住けり」とその位置を示す。そして「是より東北の方は広茅野成しを、寛永の頃御先手諏訪左門組[与力六騎高弐百俵つゝ/同心五十人三拾俵弐人ふち]の者共拝領して住居す」と、右馬殿横町を起点に左門町の位置を示している。甲州街道上から南を向いて、右手に右馬殿横町、左手に左門町がある。左門町の名の由来となった諏訪左門については「諏訪左門初て此所を開によつて名を左門殿町と云成へし」とあるだけだが、『雑談』の語り手は、左門町も右馬殿横町と似たようなものだとほのめかしているのではないだろうか。
徳川家康が江戸に幕府を開いていきなり天下泰平になったわけではない。島原の乱のような本格的な戦闘もあったし、内乱の火種はそこかしこにくすぶっていた。江戸幕府はそれを一つずつ丹念につぶしていったのだ。初期の江戸幕府は軍事政権だったのである。後には幕府の行政官僚となる旗本・御家人たちも、もとは徳川家の兵隊、つまり武士だった。新興都市・江戸の人口の大部分はこうした戦闘員たちによって占められていた。刃傷沙汰は当たり前だったのである。ましてや四谷左門町の住人たち(「四谷怪談」の主役たち)は御先手組という突撃部隊の構成員であるから、江戸時代も初期の頃は腕力にもの言わせるかなりマッチョな土地柄だったと想像される。『雑談』の語り手が、左門町について語る前に右馬殿横町の話を持ち出したのは、こうしたことを読者に連想させるためではなかったろうか。