喪失の経験

このところ愛読していた藤田省三精神史的考察 (平凡社ライブラリー)』は、たしか「或る喪失の経験」(「或る」は「ある」だったかもしれない)という味わい深いエッセイから始まっていた。これは、最近、子どもたちが隠れん坊遊びをする光景を見かけなくなったということからはじめて、隠れん坊遊びとお伽噺の共通点を探りながら(リューティが参照されていたと思う)ベンヤミンを読み解き、いま在るものや新たに生み出されたものではなく、失われたものに着目しながら現在をとらえる試みで、たいへん味わい深い文章であった。この本のたぶん最後の方にはたしか「新品文化」と題されたエッセイも収められていて、こちらは、新しいものをもてはやす風潮についてエルンスト・ブロッホを引きながら論じる趣向で、これまた味わい深い。この二つに挟まれて吉田松陰論、『保元物語』解読、戦後史論、アドルノ『ミニマ・モラリア』書評などがならぶというなんとも楽しい構成で、私はもうすっかり気に入ってしまって、熟読してその智慧に学ぼうと、この半月ほどのあいだ、毎日どこにいくにも携帯して、電車やバスのなかで繰り返し読みふけっていたのだが、その本をなくした。昨日のことである。いま、いちばん楽しみにして読んでいた本を失ってしまった。気づいたのは今朝だ。愕然として、今日は仕事も手につかない。
 収入の不安定な自由業の悲しさ、いま、決して高価ではないこの本を再び買う金がない(昼飯を三回抜けば買えないこともない)。そうかといって図書館で借りるのは、何か嫌な感じがする。失ってしまった本の手触り、買ったときに書店でかけてもらったブックカバーのデザイン、何度も頁をめくったため小口についた手垢のあとまでが懐かしく感じられ、あれとまったく同じものじゃないと嫌だもん!と子どものようにむずかっている心境である。
 このところ、私はいろいろと大切なものを失っている。心配事が多すぎて、ともすると身の回りのことがおろそかになりがちなのだ。この本をなくす直前には、スーパーで買ったばかりの長ネギをなくした。あんな長いもの、落っことしたときに気づくだろうと思うのだが、気づかなかった。本も、文庫版とはいえ厚めの本だから、落としたら気づかない方がどうかしているのだが、気づかなかった。どうも気づかないまま失うものが多すぎる。一昨年に亡くした大切な友人も、もう少し私が注意深ければ死なさずにすんだのかもしれないとも悔やまれる。
これ以上、大切なものを失う経験をしないように、ほんとうに気をつけてすごしたい。

見つかった

今日は大好きな本を失くして日がな一日半ベソをかいていたのですが、昨夜、電灯点けっぱなしで本を読みながらうたたねしてしまって、三時ごろ目が覚めて寝なおしたのを思い出し、もしや、と思って帰宅するなり、万年床をひっくり返してみたら、あった、ありました。布団の間にはさまっていました。
うれしくて、うれしくて、思わず、「立った!クララが立った!」と意味不明の奇声を発して妻に笑われました。