藤田省三『精神史的考察』メモ「或る喪失の経験」一続

先日の日記で、藤田省三のエッセイ「或る喪失の経験」でふれられているロダーリ『ファンタジーの文法』の「なぞなぞの構造」から「なぞなぞはどうして子どもたちにかくも人気があるのだろうか。確かなことは言えないが、かれらの現実克服の経験を集約的に描いた寓意がともいうべき形をとっているからではなかろうか」という文章を引用した。ただその時は先を急ぐあまり、これにすぐに続く文章を割愛してしまった。ここがけっこう大事なのではないかと思えてきたので書き留めておく。

子どもにとってこの世界は、不可思議なものや、理解しがたい出来事で満ちみちている。かれらがこの世にいること自体、直接間接に問いを投げかけながら解明しなければならない神秘であり、解かなければならない謎である。認識は、しばしば、驚きの形をとって現れる。
ここに、あそびや訓練を通して、探索や驚きの感情を無心に味わうよろこびがある。(ロダーリ『ファンタジーの文法』より)

このあとに、昨日引用した文の続き、「思うに、かくれんぼもなぞなぞあそびと無関係ではない。」が続くのであった。
ロダーリによるなぞなぞのとらえ方が面白い。これが大人だったら、既知の物事の自明性をカッコにいれて、ということになるのだろうが、子どもにとっては世界は未知の方が多いわけだから、なぞなぞは未知を既知にする訓練の一環ということになるのだろうか。
このことは、ロダーリが「おとぎ話に耳をすます子ども」で言っていることと結びつけるとなんとなくわかりやすくなる。

よくいわれてきたことであり、真実であるが、おとぎ話はさまざまな人間やその運命の豊富なレパートリーを提供してくれている。子どもはそこに、まだ知らない現実や、まだよく考えることのできない未来への手がかりを発見する。(ロダーリ『ファンタジーの文法』より)

未来であれば大人にとっても、いや誰にとっても未知の世界である。子どもでなくとも「まだ知らない現実や、まだよく考えることのできない未来への手がかりを発見」したいものである。
藤田がロダーリのファンタジー論を取り上げたのも、おとぎ話のこうした機能に着目したからなのだろう。

しかも隠れん坊とおとぎ話におけるその主題の消化の仕方は絶対的な軽さを持っている。主題は先に挙げた一連の基本的経験であったがその深刻な経験の質料から来る重圧感はここにはない。煩瑣な細密描写を全て剥ぎ取って明快簡潔に構図(構造というより構図)を描き出すおとぎ話固有の方法が、経験の重量を消去してそのエキスを血清のように抽き出しているからでもあったが、それと同時にそのおとぎ話を台本とする寸劇が言葉の使用を徹底的に取り払うことによって、玩具的に簡略な即物性を倍加させたからでもあった。経験はここでは粘着的個性から解放されている。こうしておとぎ話が主題として語る経験は寸劇化されることによって一層重苦しさから解き放たれたエキスとなって、知らず識らずの間に血清として子供の心身の底深くに注ぎ込まれ蓄積されていく。将来訪れるであろう経験に対する胎盤がこのようにして抗体反応を起こすことなく形成されるのであった。(藤田省三精神史的考察 (平凡社ライブラリー)』より)

このように藤田は、新しい経験の構図を明快簡潔に描き出す機能をおとぎ話に期待している。
なお、「おとぎ話を台本とする寸劇」というのは、これに先立つ箇所で藤田が「遊戯としての「隠れん坊」は、聞き覚えた「おとぎ話」の寸劇的翻案」としていることによる。これは隠れん坊遊びのことである。
さて、この文章で藤田は身体性を重視している。「血清のように」とか「経験に対する胎盤」とか「抗体反応」とかの表現はそれに由来するものだろう。
けれども、ロダーリに従うなら、言葉によるなぞなぞもおとぎ話や隠れん坊とつながっている。なぞなぞもまた「玩具的に簡略な即物性を倍加させ」ているのではないだろうか。身体性を重視するあまり、なぞなぞについて、あえて言い落としたのだろうが、ここはちょっと気にかかる点である。