「四谷怪談」を読む(二十三)『四ッ谷雑談集』上巻まとめ

クリスマスだが、考えてみれば今の私にほかに書くこともないので、またしばらく『四ツ谷雑談集』について覚書を続ける。
今回は、物語の筋を追うことは一休みし、『四ッ谷雑談集』上巻の不自然な時間の流れの原因について私なりの仮説を書き留めておきたい。
何度も蒸し返すが、『四ッ谷雑談集』上巻の世相風俗の描写を拾い出すと、寛文から延宝にかけて(1670から前後5年ほど)のことと、貞享年間(1684-1687)のこととが入り混じっている。

上巻関連簡易年表

1657 明暦三年
明暦の大火。旗本奴水野十郎左衛門、町奴幡随院長兵衛を殺害。吉原移転。
三宅弥次兵衛正勝、御先手組頭に就任(『諸家譜』)。山田浅右衛門貞武生まれる。
1658 万治元年
近江節(語斎節)流行?
1661 寛文元年
『片仮名本因果物語』刊行。
1663 寛文三
三宅弥次兵衛正勝、御先手組頭を離任。諏訪左門頼重、御先手組頭に就任(『諸家譜』)。
諏訪左門就任以来、四ッ谷忍町にあった御先手組組屋敷を左門殿町と呼ぶ(書上)。
1666 寛文六年
京極家改易。
1671 寛文十一年
水痘流行(『日本疫病史』)
お岩、三番町より失踪。この時、25歳?
1672 寛文十二年
【累事件発生】一月から四月まで。
1673 延宝元年
「碁盤忠信」初演。
1675 延宝三年
諏訪左門、御先手組頭を離任。森川金右衛門氏知、御先手組頭に就任(『諸家譜』)。
1677 延宝五年
『諸国百物語』刊。『宿直草』刊。江戸で鬼子母神流行。
1679 延宝七年
越後騒動。
1680 延宝八年
徳川家綱没、徳川綱吉が五代将軍に就任。
森川金右衛門、御先手組頭を離任。水野籐右衛門吉政、御先手組頭に就任(『諸家譜』)。
1681 天和元年
綱吉による越後騒動再審。
1682 天和二年
江戸大火(八百屋お七火事)。
1683 天和三年
比丘尼、天和から貞享(1681-1687)に流行。
1684 貞享元年
【累事件】『古今犬著聞集』刊行か(序は天和四年)。
1685 貞享二年
刻み煙草の行商、貞享年間(1684-1687)より始まる。
太夫節の流行「頃日時花半太夫節和にて能れ」貞享年間(1684-1687)。
1686 貞享三年
九月、火付盗賊改中山勘解由、かぶき者大小神祇組を一斉逮捕。
1687 貞享四年
水野籐右衛門、御先手組頭を離任、榊原采女政喬、御先手組頭に就任(『諸家譜』)。

昔語りの遠近法

鶴屋南北東海道四谷怪談』のイメージに引きずられて、お岩の婿取りから伊右衛門の再婚、お岩失踪までをひとつながりの事件として見ようとすると、どうも辻褄が合わなくなる。
つまり、伊右衛門の再婚からお岩の失踪までの間に10年くらいのブランクが生じる。これをかつての考証家たちのなかには、昔の女は気が長かったと見えて、などとのんきなことを言っていた人もいたが、どうも違うのではないかという印象がある。
ちなみに『四ッ谷雑談集』はこのあとの中巻で、時代がはっきりわかる事件を取り上げている。元禄七年(1694)に旗本・多田三十郎が吉原で斬殺された事件である。そして、四谷左門町で起きたお岩の祟り騒動はこの事件と並行して起きたものとして描かれている。さらに、下巻では忠臣蔵事件(1702)に関連する人物が登場しており、中巻と下巻の時代設定は、元禄年間(1688-1703)とその後であることがはっきりしている。一方で何度でも繰り返すが、上巻の記事には寛文・延宝のことと、貞享年間のこととが入り混じっている。
ここから考えられるのは、『雑談』作者の歴史認識、遠近法である。『雑談』が、仮に一人の作者の手になるものとして、その下巻の記事内容から享保十一年(1726)以降に書かれたことがはっきりしている。1726年から元禄時代を描く場合、およそ20年前から40年前を振り返っていることになる。執筆時点での作者の年齢にもよるのだが、たいていの場合、30年くらい前のことであれば自分と同世代か自分の親の世代の記憶をもとに描くことができただろう。
ところが1670年頃のこととなると、1726年頃の『雑談』作者にとって50年以上前のこととなる。今より平均寿命の短かった時代のことだから、50年以上も前の出来事となると詳しく覚えている人は少なかっただろう。
ちなみに私は今50歳だが、30年前の東京・新宿で起きた事件についてなら多少の土地勘をもって描くこともできるが、50年前となると、生まれる前のことだから自分の親の世代の記憶に頼ることになる。親父、お袋の昔話である。
私の父の昔話にはしきりに「戦前の東京は…」という言葉が出てくるが、父の物心ついた頃にはすでに十五年戦争が始まっていたはずで、ほんとうの戦前のことなど父は知る由もない。どうやら明治生まれの祖父から聞いた話が混じっているようなのである。
おまけに、秋田の山村で生まれ育った母の昔話に至っては、いわば柳田國男の世界である。実際、私は柳田の『日本の昔話』を読んでいて、そこに幼い日に母が語ってくれた昔話とほぼ同じ話を見つけて驚いたことがある。七十年ほど前まではキツネやムジナや山姥が人間と共存している世界が秋田の山里の囲炉裏端には実在したのだ。それは、母は祖母から、祖母は曽祖母からといった具合に聞き伝えてきた民話的世界であっただろう。
歴史と昔話の違いは、歴史には日付があるが昔話には日付はないということである。何年何月という日付を持たない昔話における出来事は、「むかし」という曖昧な枠のなかで輪郭を失い、容易に他の出来事と入り混じる。平成から昭和をふり返るとしても、戦後と戦前・戦中では同じ時代とは言えないほどに世相が違う。平成の現代人にとって戦前・戦中の昭和は、記録・史料に頼らない限り「むかし」である。『四ッ谷雑談集』上巻においてもこれと似たような事情があったのではないか。

「むかし」の語り手たち

私たち自身にとって江戸時代はひっくるめて「むかし」である。しかし、私たちにとっての享保は時代劇の世界でも、『雑談』作者にとってはまさしく現代のことである。『雑談』作者は享保という「今」から過去を振り返っている。
延宝八年(1680)に徳川家綱が没し、徳川綱吉が五代将軍に就任し、翌年(1681)に天和と改元している。つまり、八代将軍徳川吉宗の治世下で執筆している『雑談』作者にとって、五代将軍綱吉の時代はまだ日付のある過去だが、四代将軍家綱の時代はもはや日付のあいまいな「むかし」だったのではないか。
『雑談』の最初の章「江戸繁栄日記 并四ッ谷開発之事」には右馬殿横町の町名の由来となった辻右馬という人のエピソードが書き留められている。この人物についてははっきりしないのだが、三代将軍徳川家光に仕えた旗本によく似た名前の人がいることから、同一人物だろうと私は推定している。この山勘が当たっていたとして、右馬殿横町の町名の由来は四谷左門町の町名の由来と並行して語られているわけだから、『雑談』作者にとって家光の時代とその子の家綱の時代は同じ程度の「むかし」として意識されていたことになる。
そして、『雑談』における「むかし」の語り手(情報源)は、享保という今を生きる『雑談』作者ではあり得ない。おそらく作者の親世代の老人たちが、自らの見聞にそのまた親世代から聞き伝えていたこともまじえて語る昔話だったはずである。あるいは『雑談』上巻には怪談の語り手の一人として今井仁右衛門という人物が出てくるが、この作中人物のモデルとなった人も実在したかもしれない。などと想像するのも楽しい。
このように考えてみると、『四ッ谷雑談集』上巻で描かれる事件の経過と物語の時間にズレがあったり、テンポがやたらとゆっくりだったりするのも、昔の人が気が長かったからではなく、享保の作者から見て親世代の人の話と祖父母世代の人の話が入り混じっているからではないかと推測できる。
また、今井仁右衛門を作中の語り手とする伊右衛門再婚の夜の出来事と、それ以外の場面の情報源は別だったのではないか、ということは少なくとも言えると思う。
その他に、伊東喜兵衛(土快)が三宅弥次兵衛組与力とされているが、物語の全体は三宅弥次兵衛の後任・諏訪左門が四谷の組屋敷を整備して「左門殿町」と呼ばれるようになってからのこととして語られているのだから、なんだかちぐはぐである。この不協和音も、さらにもう一人の語り手の存在を暗示しているかもしれない。
伊右衛門再婚の仲人を断った近藤六郎兵衛のモデルとなった人物も気になる。元禄時代からのことを描く中巻・下巻にも登場するこの人物は、事件の一部始終を見届けていた可能性もある。
そして極めつけは物語の最後まで生きていた伊東喜兵衛(土快)である。『四谷雑談集』のある部分は土快老人の語る昔話だったのではないかという疑いはぬぐえない。
もちろん、『雑談』作者が今井仁右衛門、近藤六郎兵衛、伊東喜兵衛(土快)らから直接聞き取りをしたといいたいわけではない。物理的な情報源は一人の人だった可能性もある。ただ、仮に生身の語り手は一人の人物だったとしても、その人の昔話には先行する複数の人の語りがないまぜになっていた可能性が高いということだ。
「へえ、伊東のご隠居は死ぬ間際にそんなことを言い残しましたか。それについては近藤老人の話ではこれこれしかじかだったということですよ。とはいえ、仁右衛門さんはまたちょっと違うことも言っていたなあ」
というような具合に。