「四谷怪談」を読む(三)時代はいつなのか

お恥ずかしいことに『実録四谷怪談―現代語訳『四ッ谷雑談集』 江戸怪談を読む』に誤植があった。
同書24頁の注欄の注5に「田宮又左右衛門」とあるのは誤りで、本文にある通り「田宮又左衛門」が正しい。ワープロの誤変換を見逃してしまった。お詫びして訂正する。
田宮又左衛門は『四ッ谷雑談集』(以下、『雑談』と略記)の二番目の章に登場する。本編のヒロインお岩の父親の名前である。
『雑談』によれば、田宮又左衛門は左門町に住む御先手組同心で、「人柄実躰成男故、頭三宅弥次兵衛にも能思はれ」たと言う。眼病を患い、勤務が難しくなったので一人娘のお岩に婿を取って跡を継がせようとしていたが、急病で「五拾壱の夏」急死した。この又左衛門という人がいつの時代の人かが問題である。というのも、又左衛門はお岩の父親であるだけでなく、あとの記述から『雑談』の最重要人物である伊東喜兵衛と同世代であったと推定されるからだ。
『文政町方書上』では、又左衛門急死からお岩の婿取りまでを貞享年間(1684〜1687)の頃のこととしており、これまでの「四谷怪談」論のほとんどがこれを踏襲してきたし、私もなんとなくその時代を想定してきたのだが、『雑談』を読んでいくと『書上』説が疑わしくなってくる。というのも、又左衛門の上司として名前を挙げられている三宅弥次兵衛という人物が御先手組頭を務めた時期が明暦三年(1657)から寛文三年(1663)までのことだからだ。これは公的な記録(『寛政重修諸家譜』)が残っている。三宅弥次兵衛の名は、又左衛門が急死した後、伊右衛門が婿入りしてからも伊東喜兵衛の上司の名前として出てくる。つまり『雑談』の語り手は、物語の発端の時期を三宅弥次兵衛が御先手組頭在任中のことと設定しているのである。このことはかなり大問題なのだ。
まず、三宅弥次兵衛は御先手組頭としては諏訪左門の前任者である。つまり、三宅弥次兵衛在任中は、御先手組の御家人たちが住んだ四谷の町の一角は、まだ左門町という名前ではなかったはずなのだ。それなのに、『雑談』は左門町の由来を述べるなかで「諏訪左門初て此所を開によつて名を左門殿町と云成へし」と言っている。些細なことかもしれないが、こうした矛盾した記述がどうして書かれたのか気になるところだ。
次に、『雑談』は「多葉粉屋茂八か事 付田宮伊右衛門先妻鬼女と成事」で、伊右衛門にだまされたと知ったお岩が怒り狂い、失踪したことを語ったあと、お岩の消息は「元禄十三年中迄三十年の間終に見へざりける」とする。この一文は明治時代の翻刻『今古実録四谷雑談』にも、大正・昭和の『近世実録全書』にもない貴重な一文である。三番町の旗本屋敷を飛び出したお岩は四谷の方角をめざして走り去ったが、それっきり行方不明になって、元禄十三年までの三十年間、見つからなかった、というのである。これを信ずるなら、お岩失踪事件の時期は、元禄十三年(1700)から三十年前、つまり寛文十年(1670)の頃ということになる。これまで、事件が起きたのは貞享の頃だったという『書上』の記事がなんとなく前提とされてきたわけだが、寛文の頃だとする伝承があったことがわかった以上、「四谷怪談」の発端については時代設定を再考する必要がある。そして、事件の始まりが寛文年間であれば、寛文三年まで在職した三宅弥次兵衛の名前が出てくるのもあながち不自然なことではないということになる。
以上を考え合わせると、いくつかの仮説が出てくる。
一、『雑談』はまったくの作り話で、時代設定などどうでもよかった。そうだとすれば話はこれで終わりだが、私はこれをとらない。
二、『雑談』の語り手は、三宅弥次兵衛と諏訪左門の在任期間を取り違えていた。今と違って政府の人事が公開されていたわけではないし、御先手組屋敷を左門町というからには諏訪左門が前任者なのだろうと想定し、三宅弥次兵衛の在任期間を(実際は諏訪左門が在職した)寛文三年から延宝三年(1675)と考えた。そもそも在任期間を正確に知らなかったのかもしれない。
三、情報源が複数だったうえ、かなり昔のことだったので、情報提供者たちの記憶があいまいだった。
私は今、この三番目の仮説を有力視している。
『雑談』が奥書どおり享保十二年(1727)に書かれたものだとして(新史料が出てくれば撤回する)、寛文十年(1670)といえば六十年近く前のことである。今より平均寿命の短かった江戸時代の人々にとって六十年近く前といえば、かなり昔のこと、親の世代から聞いた昔話だったろう。『雑談』の語り手はそうした昔話を集めて一本にまとめようとしたのではないか。『四ッ谷雑談集』というタイトル通り、四谷の雑談を集めたのである。ましてや「四谷怪談」は公式の記録など残らない市井の事件についての伝承である。いつの頃のことだったかと尋ねても、何年何月と答えられる人はいなかっただろう。そのかわり、諏訪左門殿がお頭だったころに云々、とか、又左殿は三宅様の覚えがめでたく云々とか、歴代の上司の名前を挙げて語られたのではないだろうか。『雑談』の書き手は、老人たちの昔話を聞いたままに書き留めて、あとでまとめ直した。『雑談』上巻はこのようにして出来上がったのではないかと想像する。
もし私の想像が当たっていれば、『雑談』上巻で語られる内容、又左衛門の死から、お岩の婿取り、伊東喜兵衛の企み、伊右衛門の再婚、お岩の失踪までの話は、そのあとで語られる事件の原因を物語るものとして、回顧的に再構成されたものと考えてもよいのではないだろうか。
もっとも、即断は禁物である。上に挙げた他にも、物語の発端部分は『雑談』が書き留められた享保の頃までには既に一定のまとまりのある物語として出来上がっていて、雑談の書き手はそれを物語の発端としてはめ込んだ、とか、『書上』の記すように貞享年間に起きた出来事なのに、関係者から咎められるのを避けるため、わざと古い時代の人名を持ちだした、とか、いろいろなケースが考えられる。
ともあれ、『雑談』上巻の内容は、『雑談』成立時には既に昔話の部類であったこと、これは確実だろうと思われる。