「四谷怪談」を読む(五)「お岩」という名前

背景説明のつもりで脱線ばかりしてきたが、いよいよ『四ツ谷雑談集』の内容に入りたい。

背景のまとめ

舞台となる四谷左門町は江戸の周縁部を開拓した新興住宅地である。今の新宿区四谷の市街とは景観が違う。少し歩けば田畑や雑木林のある町はずれに、広い庭をもった新築の木造住宅が建ち並んでいる光景を想像した方が実像に近い。
住人は幕府に仕える御先手組の御家人たちとその家族である。江戸城の警備が主な仕事で非常招集でもない限り数日に一度の当番の日だけ出勤すればよく、身分は安定しているが、収入は低い。
事件の発端となる時期は、寛文年間が想定されている。四代将軍家綱の治世である。ただし、『雑談』の書き手は親の世代が若い頃の思い出話などをもとに書いているのであって、必ずしも正確な時代設定とは言えない。享保十二年(1727)当時からさかのぼっておよそ六〇年前という程度のことにすぎず、寛文十年(1670)を基点にして前後十年くらいの誤差はありうる。また、文中の日付や人物の年齢なども事実かどうかはわからない。
『雑談』の記事には当時の通俗道徳の影響が見られる。因果応報が出来事の説明原理であり、人柄の実直さや家の継承の正統性が評価される。つまり、仏教で説明し、儒教で評価する傾向がある。
以上が、『四ッ谷雑談集』の記述の背景にある。

お岩という名前

さて、御先手組同心・田宮又左衛門が急死して、あとには老妻と一人娘お岩が残された。この跡目をどうするか、「同組の者共寄合」相談したとある。親の代から同じ釜の飯を食ってきた面々であるから、単なる同僚という以上に結束がかたかったのだろう。ともかく婿養子をということになったが、お岩が醜かったため婿のなり手がいなかった。
お岩が本当に醜かったかどうかはわからない。これは『死霊解脱物語聞書』の累の描写の影響があるらしいことは既に指摘されていることだし、私もそう思う。そもそも寛文十年前後に時代が設定されていることからして、寛文十二年の累事件を念頭においてのことではなかったかと疑われる。これについては『実録四谷怪談―現代語訳『四ッ谷雑談集』 江戸怪談を読む』の注やあとがきでふれたのでここではくり返さない。
お岩が醜かったという伝承について、「お岩」という名前と結びつける人もいる。つまり、お岩とは醜い女に付ける名前であった、というのである。

「お岩」という名は、「岩藤」「岩根御前」など、『古事記』の「石長比売」以来のかたましい女の系譜に名付けられたかぶきの独自な命名法である。『模文画今怪談』にはお岩の名がみえぬが、「いたって悪女なり」とある点に、お岩の名を導き出す素地が窺われる。                         (郡司正勝東海道四谷怪談 新潮日本古典集成 第45回』解説 p421〜p422)

 要するに、顔が醜く、性格も意固地で、ちょっと手に負えないキツイ女の名前は「岩」と相場が決まっていたというのだ。郡司はさらに「お岩の名は、かぶきでは夫に裏切られるか、夫を裏切る人物の名であった」として、「岩」という名前は物語の中で伊右衛門の妻が演じるキャラクターから連想してつけられた役名であることを強調している。
 また、『日本伝奇伝説大事典』(角川書店)の「お岩」の項(小池章太郎執筆 p165〜166)には、「お岩という名は南北の芝居に始まったとみてよかろう」とした上で次のような記述がある。

なお南北の息子直江屋重兵衛は、南北の作劇の協力者であり、深川櫓下に妓楼を営んでいたが、文政後期刊の岡場所細見『辰巳の花』の「なおゑや」の条に娼妓筆頭として「いわ」の名が記載されているのが注目される。

 南北が新作のヒロインの名前を息子の店で抱えている娼妓からとったと想像するのもおもしろいが、娼妓筆頭に「いわ」の名前があったというのは、歌舞伎の世界ではいざ知らず、現実社会ではイワという名は、不細工で性格の悪い女の名前とは限らなかったことを示してもいる。親父の芝居に出てくる化け物のような女がナンバー・ワン・ホステスでは、息子の店はつぶれていたろう。
しかし、郡司説も小池の連想も、いずれも南北の「芝居」を基準にしてなされた推測であり、『四ッ谷雑談集』は成立年代が不明であったためか無視されている。『雑談』を基準にすれば、お岩は初めからお岩である。
そもそも、岩という名前は女性の名前としてそれほど珍しいものではなかった。ちなみに私の年長の知人(60代)のお母上の名も「いわ」さんだそうだ。
ちなみに、馬場文耕の『武野俗談』(宝暦七年)には「烏お岩」という女性が出てくる。このお岩は根津川島屋の遊女で、烏の絵のついたものを好んだため烏お岩と呼ばれたという。書道が得意(「烏石と名乗つて筆道に名高きものあり」)で、親孝行な女性だったそうである。