「四谷怪談」を読む(十)お花とは誰なのか

伊右衛門の後妻の名は、『四ッ谷雑談集』、鶴屋南北東海道四谷怪談』、「文政町方書上」でそれぞれ異なっている。『雑談』ではお花、南北の芝居では喜兵衛の孫娘お梅、「書上」では「喜兵衛妾こと」となっている。
『雑談』を読んでいた南北が、お花の名を小仏小平女房の名に用い、伊右衛門後妻の名をお梅としたのはなぜか、また、喜兵衛の妾ではなく孫娘としたのはなぜか。
「書上」の喜兵衛妾こととは、『雑談』のお花のことだろうか。この他にも「書上」には時代設定(事件の発端を貞享の頃のこととする)や、秋山長右衛門の役割など、『雑談』と異同がある。あるいは、『雑談』とは別系統の伝承ルートがあった可能性もある。ただし、「書上」が書かれたのは文政十年(1827)であって、遅くとも宝暦五年(1755)には既に成立していた『雑談』から七十年余り遅れてのことだから、そこは割り引いておかねばならない。
このように、お花という名前一つとっても謎だらけなのだが、お岩様のお叱りを受けることを覚悟で、無謀な仮説を立ててみたい。いや、仮説というと大げさだから疑問としておく。『雑談』を読んでいるうちに漠然とわいた疑問である。
再度お断りするが『実録四谷怪談―現代語訳『四ッ谷雑談集』 江戸怪談を読む』は『四ッ谷雑談集』の全訳ではあっても逐語訳ではない。私によくわからないところ、現代語訳するとかえって複雑になるところは意訳したり要約したりしている。次の個所もその一つだ。

二人共に何れを夫と難分、九重の花に立田の紅葉を折添たる粧ひ、喜兵衛寵愛不斜、仮染にも余所の人には不見を、我一人詠る庭の桜は咲も残らず散も初めず、朝よりうらゝか成今日の日は此春未希成を無に暮んも流石花の思ふ所ももだし難く、無隔者二三人招て酒宴を催し弐人の者の爪音に引れて春の日も何ならずや、漸々夜に入けり。

「二人」というのは、お花とお梅のことである。この二人は「何れを夫と難分」という。分かち難いというのは『実録四谷怪談』では美貌の程度だとして「甲乙つけがたい」と訳したが、素直に読めば、どちらがどちらかわからないほど似ていたともとれる。
次の「九重の花に立田の紅葉を折添たる粧ひ」は、花に紅葉の譬えとざっくり訳したが、「九重の花」は八重桜のことで、お花のことと後に出てくる「庭の桜」を引っ掛けている。二人がそろうと八重桜に紅葉を添えたようなゴージャスな美しさで、喜兵衛の寵愛はひとかたではなかった(喜兵衛寵愛不斜)。そこで、軽々しく他人に見せなかった(仮染にも余所の人には不見)。と、ここまではお花とお梅、二人の人間のことを言っているようなのだが、逆接の「を」でつなげて、他人には見せなかったが満開の桜を自分一人でながめているのも惜しまれて花見の宴を催すとなると、微妙なところだ。自分一人でながめる庭の桜は満開で(我一人詠る庭の桜は咲も残らず散も初めず)というときの、この「庭の桜」は喜兵衛の囲い者であるお花のことでもあれば、実際に庭に植えてある桜の木ことでもあるだろう。そして、この春でもまれな朝からうららかな今日の日を無駄にするのも(朝よりうらゝか成今日の日は此春未希成を無に暮んも)、意味としてはこのよき日を一人で桜花を眺めて過ごすのも惜しまれて、ということなのだろうが、次がわからない。「流石花の思ふ所ももだし難く」、この「花」は何だ?
さすがに「花」の思いも捨てておけずに、と直訳できるが、「花」は何を指しているのか。妾のお花か、庭に植えた桜か。結論から言えば両方の意味を重ねているわけだが、その場合、お花の思いとは何かということが引っかかってくる。なぜなら、花の思いも無視できずに喜兵衛は親しい者に三人を招いて花見の宴を催す(無隔者二三人招て酒宴を催し)からだ。
それともなんだろうか。お花が花見を望んだのだろうか。「ねえねえ、喜兵衛さまったら、お花、退屈しちゃった。せっかく桜が満開なんだから、お客さんも呼んでお花見でもしましょうよぅ。ホラ、新人のイケメン、伊右衛門くん?とかも呼んで遊びましょ。そしたら、お花、お梅ちゃんと琴を弾いてあげるから」とかなんとかせがまれた喜兵衛は鼻の下を伸ばして「お花も甘えんぼちゃんよのう」とか言って、よし今日は花見じゃあとなったのだろうか。
ちょっと考えてみて、この案は却下した。『雑談』のお花は美人であるだけでなく、才覚も備えたしっかり者で慎ましい性格の女として描かれていて雇い主におねだりをするようには思えないし、これではお花が伊右衛門に気のあることを喜兵衛があらかじめ知っていたことになってしまう。これには無理がある。
そうするとやはり「花」とは桜の木ということになる。喜兵衛は満開の桜に誘われて花見を催した、そう考えた方がわかりやすい。しかし、同時にこの文章の「花」はやはりお花のことでもある。だから、今まさに満開の桜と、美しい盛りの妾のお花、一人占めしてながめていたこの二つの花を見せびらかしたい思いに駆られた、と考えるのが常識的なところだろう。
しかし、それなら、お梅はどうなる。『雑談』では影が薄いが、お花と見間違えるほどの美しさだったという彼女の名前も花の名前だ。
こう考えてきて、常識的な線で踏みとどまればよいものを、ふと妄想がふくらんできてしまった。
以下、私の妄想である。

お花は造花ではないか

お岩とお花を記紀神話イワナガヒメコノハナサクヤヒメに当てる説がかねてよりあった。私自身は、お岩というひとは江戸時代にたしかに実在した女性だという確信があったし、だいいち、江戸の都市伝説の起源をたずねるのに記紀神話とはいくらなんでもさかのぼりすぎだろうと思っていたが、お花のことをあれこれ考えているうちに半分だけ当たっていると思えてきた。
お岩というひとはいた。その名前は江戸時代の女性名としては珍しくないもので、歌舞伎の伝統とも記紀神話とも関係ない。健康で長生きしてほしいという親の願いから名付けられたものだったろう。
しかし、お花という名前は、お岩のライバルとして記紀神話コノハナサクヤヒメから連想して名付けられた架空の名前だったのではないか。もちろん、名付け親は『雑談』の作者である。『雑談』の作者は、お花にあたる人物の名前を知らなかったか、あるいは何か事情があって伏せたかったかして、彼女の名前を創作する必要があった。そこで記紀神話をヒントに、お岩を追い落として妻の座に納まる女ならお花に決まっているじゃないかと考えた。
『雑談』が書かれる前にあった伝承、原「お岩伝説」に登場する伊右衛門後妻の名がどのようなものであったのか、新資料が発見されでもしない限りわからない。あるいは「書上」にあるように「おこと」といったかもしれない。ただし、「おこと」という名は『雑談』のお花が琴が上手い(娘のお染に至っては名人も驚くほどの上手)とされていることから名付けられた可能性もあるので、お花でなければおことだと決められるわけではない。
一方、南北が『雑談』のお花にあたる人物の役名にお梅の名を当てたことに注目したい。南北はプロの劇作家だから、私が紆余曲折してようやく思いついたことなど「お岩にお花? それじゃあ神代の話になるじゃねえか」と『雑談』作者の作為を一瞬で見抜いただろう。ここはお梅としてこそリアリティが出ると考えたのだろうと想像する。もちろん南北の関心は伝説の源流を探究することにはない。あくまでも舞台の上で演じたときに観客が本当らしく感じる方を選んだだけだろう。さらに、伊東喜兵衛を吉良上野介のイメージに重ねるべく喜兵衛を老人と設定する必要があったので、喜兵衛とお梅の関係を祖父と孫娘に置き換えた。こうして芝居の伊藤喜兵衛が作られた。
以上の想像が大きくはずれていなければ、お花とは元の伝承にはなかった名前で、『雑談』作者がこしらえた造花である。お花と伊右衛門が互いに恋心をいだきながら喜兵衛の目を恐れてぐっとこらえている描写など、いかにも作りものだ。あるいは『雑談』でお花の言動として描かれているのは、別の誰か、例えばお梅(あるいはおこと)の身の上に起きた出来事をお花という人物のこととして描いたものかもしれない。
そもそも、喜兵衛がいくら裕福だったとはいえ、それは同心に比べてのことであって、その生活レベルは小身の旗本に及ぶかどうかという程度のはずで、はたして妾二人を雇えたかどうか不審に思われる。しかも、『雑談』では後に隠居して土快と名乗った喜兵衛は、お梅のほかにさらに三人もの妾を雇って、計四人の女たちと遊び暮らしていたというからまるで大奥、というには大げさでも大名並みの暮らしぶりだ。安政の頃の話だが、妾の給金の相場は月三両というから、四人いれば十二両、結構な大金である。与力の隠居にそれだけの財力があったとは思えない。
こうしたことから、お花は架空の人物で、何人もの妾がいたというのは喜兵衛の好色ぶりを強調するための誇張と考えた方がよいかもしれない。
実際に喜兵衛のもとにいたのは、南北のにらんだとおり、お梅ひとりだったのではないか。